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葛西城東まぼろし散歩#10/南砂町04

嫁さんと人通りのない真っすぐな団地の中の通りを歩きながら、永井荷風を思い浮かべた。
引用する。荷風随筆集の「元八まん」である。
「或日わたくしは洲崎から木場を歩みつくして、十間川にかかった新しい橋をわたった。橋の欄てには豊砂橋としてあった。橋向には広漠たる空地がひろがっていて、セメントのまだ生々しい一条の新開道路が、真直に走っていたが、行手には雲の影より外に目に入るものはない。わたくしはその日地図を持って来なかったので、この新道路はどこへ出るものやら更に見当がつかなかったのであるが、しかしその果てはいずれ放水路の堤に行き当っているにちがいない。堤に出さえすれば位置も方角も自然にわかるはずだと考え、案内知らぬ道だけにかえって興味を覚え、目当もなく歩いて行くことにしたのである。」
荷風は深川城東を開発途中の町として見ていた。

「道路は市中の昭和道路などよりも一層ひろいように思われ、両側には歩道が設けられていたが、ところどころ会社らしいセメント造づくリの建物と亜鉛板トタンいたで囲った小工場が散在しているばかりで、人家もなく、人通りもない。道の左右にひろがっている空地は道路よりも地盤が低いので、歩いて行く中、突然横から吹きつける風に帽子を取られそうな時などは、道を行くのではなく、長い橋をわたっているような気がした。」
僕は団地の中を歩きながら、この荷風の言葉を思い出した。

「道が爪先上りになった。見れば鉄道線路の土手を越すのである。鉄道線路は二筋とも錆ているので、滅多に車の通ることもないらしい。また踏切の板も渡しではない。線路の上に立つと、見渡すかぎり、自分より高いものはないような気がして、四方の眺望は悉く眼下に横わっているが、しかし海や川が見えるでもなく、砂漠のような埋立地や空地あきちのところどころに汚い長屋建ての人家がごたごたに寄集ってはまた途絶えている光景は、何となく知らぬ国の村落を望むような心持である。遥のかなたに小名木川おの瓦斯ガスタンクらしいものが見え、また反対の方向には村落のような人家の尽きるあたりに、草も木もない黄色の岡が、孤島のように空地の上に突起しているのが見え、その麓をいかにも急設したらしい電車線路が走っている。と見れば、わたくしの立っている土手のすぐ下には、古板で囲った小屋が二、三軒あって、スエータをきた男が裸馬に飼葉を与えている。その側には朝鮮人の女が物を洗っている。わたくしは鉄道線路を越しながら、このあたりの光景を名づけて何というべきものかと考えた。かつて何もなかった処であるから、荒廃でもなく破壊でもない。放棄せられたまま顧みられない風景とでもいうのであろう。
セメントの新道路は鉄道線路の向へ行っても、まだ行先が知れない。初めわたくしはほどなく荒川放水路の土手に達するつもりであったので、少し疲労を覚えると共に、俄にわかに方角が知りたくなった。丁度道の片側に汚い長屋建の小家のつづきはじめたのを見て、その方の小路こうじへ曲ると、忽ち電車の線路に行当った。通りがかりの人に道を尋ねると、左へ行けばやがて境川、右へ行けば直ぐに稲荷前の停留場へ出るのだというのである」
荷風がこれを書いたのは昭和9年だから、ここに架かれている電車の線路は、城東電気軌道"須崎-水神森線"だと思われる。おそらく稲荷前駅と稲荷前派出所のいずれかだろう。城東電気軌道は後に都電の一部に取り込まれた。
こう見ると‥どうやら荷風の道筋と近い方向で僕は砂町を歩いていたらしい。

「わたくしは歩いている小道の名を知ろうと思って、物売る家の看板を見ながら行くと、長屋建の小家のつづく間には、ところどころ柱の太い茅葺屋根の農家であったらしいものが残っているので、むかしは稲や蓮の葉の波を打っていた処である事を知った。農家らしい古家では今でも生垣をめぐらした平地に、小松菜や葱ねをつくっている。また方形の広い池を穿っているのは養魚を業としているものであろう。
突然、行手にこんもりした樹木と神社の屋根が見えた。その日深川の町からここに至るまで、散歩の途上に、やや年を経た樹木を目にしたのはこれが始めてである。道は辻をなし、南北に走る電車線路の柱に、「稲荷前」と書いてその下にベンチが二脚置いてある。また東の方へ曲る角に巡査派出所があって、「砂町海水浴場近道南砂町青年団」というペンキ塗の榜示杭が立っていた。」
実は・・この派出所は今でもある。
その前に立って僕が、暫し呆然として「まさかコレを見るとはな・・」というと、嫁さんが不思議がった。
「知ってるの?」
「ああ・30ほど前からな。まさかいま唐突に出会うは思わなかった」
・・荷風は続ける。

「わたくしが偶然枯蘆の間に立っている元八幡宮の古祠に行当ったのは、砂町海水浴場の榜示杭を見ると共に、何心なく一本道をその方へと歩いて行ったためであった。この一本道は近年つくられたものらしく、敷きつめられた砂利がまだ踏みならされていない処もある。右側は目のとどくかぎり平たいらかな砂地で、その端は堤防に限られている。左手はとびとびに人家のつづいている中に、不動院という門構の寺や、医者の家、土蔵づくりの雑貨店なども交っているが、その間の路地を覗くと、見るも哀れな裏長屋が、向きも方角もなく入り乱れてぼろぼろの亜鉛屋根トタンやねを並べている。普請中の貸家も見える。道の上には長屋の子供が五、六人ずつ群をなして遊んでいる。空車を曳いた馬がいかにも疲れたらしく、鬣を垂れ、馬方の背に額を押しつけながら歩いて行く。職人らしい男が二、三輛ずつ自転車をつらね高声に話しながら走り過る。
道は忽ち静になって人通りは絶え、霜枯れの雑草と枯蘆とに蔽れた空地の中に進入って、更に縦横に分れている。ところどころに泥水のたまった養魚池らしいものが見え、その岸に沿うた畦道に、夫婦らしい男と女とが糸車を廻して綱をよっている。その響が虻のうなるように際立って耳につくばかり、あたりは寂として枯蘆のそよぐ音も聞えないのは、日も漸く傾いて、ひとしきり風の鎮る時刻になったせいであろう。赤塗の自転車に乗った電報配達人が綱を綟っている男女の姿を見て、道をきいていたが、分らないらしい様子で、それなり元きた彼方かなたへと走って行った。」
なんという美しい言魂か・・

「わたくしは小笹の茂った低い土手を廻って、漸く道を求め、古松の立っている鳥居の方へ出たが、その時冬の日は全く暮れきって、軒の傾いた禰宜ねぎの家の破障子に薄暗い火影がさし、歩く足元はもう暗くなっていた。わたくしは朽廃した社殿の軒のきに辛くも「元富岡八幡宮」という文字だけを読み得たばかり。境内の碑をさぐる事も出来ず、鳥居前の曲った小道に、松風のさびしい音をききながら、もと来た一本道へと踵きびすを回めぐらした」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました