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深川佐賀町貸し蔵散歩#08

永井荷風の『深川の散歩』を見る。
「清洲橋という鉄橋が中洲から深川清住町の岸へとかけられたのは、たしか昭和三年の春であろう。この橋には今だに乗合自動車の外、電車も通らず、人通りもまたさして激しくはない。それのみならず河の流れが丁度この橋のかかっているあたりを中心にして、ゆるやかに西南の方かたへと曲っているところから、橋の中ほどに佇立たたずむと、南の方かたには永代橋、北の方には新大橋しの横よこたわっている川筋の眺望が、一目に見渡される。西の方、中洲の岸を顧みれば、箱崎川の入口が見え、東の方、深川の岸を望むと、遥か川しもには油堀の口にかかった下の橋と、近く仙台堀にかかった上の橋が見え、また上手には万年橋が小名木川の川口にかかっている。これら両岸の運河にはさまざまな運送船が輻輳しているので、市中川筋の眺望の中では、最も活気を帯び、また最も変化に富んだものであろう。」
荷風は深川の景色を清洲橋から書き始めている。
清洲橋は、関東大震災復興事業として渡船場「中洲の渡し」があった日本橋中州から対岸の清住に架橋された。現在は重要文化財に指定されている純国産の鉄橋だ。
荷風は続けてこう書く。
「清洲橋をわたった南側には、浅野セメントの製造場が依然として震災の後もむかしに変らず、かの恐しい建物と煙突とを聳しているが、これとは反対の方向に歩みを運ぶと、窓のない平たい倉庫の立ちつづく間に、一条の小道が曲り込んでいて、洋服に草履をはいた番人が巻煙草を吸いながら歩いている外には殆ど人通りがなく、屋根にあつまる鳩の声が俄に耳につく。」
「むかしの黒江橋は今の黒亀橋のあるあたりであろう。即ちむかし閻魔堂橋のあったあたりである。しかし今は寺院の堂宇も皆新しくなったのと、交通のあまりに繁激となったため、このあたりの町には、さして政策の興をひくべきものもなく、また人をして追憶に耽らせる余裕をも与えない。かつて明治座の役者たちと共に、電車通の心行寺に鶴屋南北の墓を掃ったことや、そこから程遠からぬ油堀の下流に、三角屋敷の址を尋ね歩いたことも、思えば十余年のむかしとなった。(三角屋敷は邸宅の址ではない。堀割の水に囲まれた町の一部が三角形をなしているので、その名を得たのである。)
今日の深川は西は大川の岸から、東は砂町の境に至るまで、一木一草もない。焼跡の空地に生えた雑草を除けば、目に映ずる青いものは一ツもない。震災後に開かれた一直線の広い道路と、むかしから流れている幾筋の運河とが、際限なき焦土の上に建てられた臨時の建築物と仮小屋とのごみごみした間を縦横に貫き走っている処が、即ち深川だといえば、それで事は尽きてしまうのである。」

明治の御代になると殖産興業政策が始まり、この辺りに水利を利用した工場がいくつも作られた。
荷風が描いた浅野セメントだけではなく、東京人造肥料会社、旭焼陶器、汽車製造株式会社などがこの地に拠点を置いた。

泉鏡花は「深川浅景」でこう書く。
「ドロドロした河岸に出た。
『仙台堀だ。』
『だから、それだから、行留りかなぞと外聞の悪いことを言うんです。—そもそも、大川からここへ流れ口が、下之橋で、ここが即ち油堀…‥』
『ああ然うか。』
『間に中之橋があって、1つ上に、上之橋を流れるのが仙台堀川ぢゃありませんか。…‥断って置きますが、その川筋に松永橋、相生橋、海辺橋と段々に架かっています。…ああ、家らしい家が皆取払われましたから、見通しに仙台堀も見えそうです。すぐ向うに、煙だか、雲だか、灰汁のような空にただ一ヶ処、樹がこんもりと青々として見えましょう。—岩崎公園。大川の方へその出っ端に、お湯屋の煙突が見えましょう。何ういたして、あれが、霧もやの深い夜は人をおびえさせましたセメント会社の大煙突だから驚きます。中洲と、箱崎を向うに見て、隅田川も漫々渺々たる処だから、あなた驚いてはいけません。』
鏡花は「家らしい家が皆取払われ」て、町屋から工場へと変わっていった経緯を描いている。

そして大正12年(1923年)9月1日、関東大震災を迎える。佐賀町あたりは灰燼と化した。
これが大きな岐路になった。再建のための再投資はすべての工場をさらに進化させ、用地も巨大化した。つまり佐賀町周辺の隅田川沿いでは、とても手狭になったのである。
工場は、さらに隅田川を離れ江東区奥地あるいは江戸川区・葛飾区・足立区へ移転していった。・・その移転跡に、また江戸時代のように倉庫が戻ってきた。そして佐賀町周辺は、また町屋と工場と寺社が混在する町に戻ったのだ。

そして昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲である。佐賀町あたりは、再度灰燼と化した。町屋は完膚なまで燃え、東京全体で(とはいっても大半は下町で)10万余人の東京都民が死亡した。
その焦土が復興するには、敗戦に続く朝鮮戦争の軍需必要だった。戦争特需は、日本の産業構造を決めると共に高度経済成長をもたらした。いまの日本の産業構造は、朝鮮戦争/ベトナム戦争と続いた特需が決定づけたといえよう。いま日本の産業が凋落しているのは、戦争特需を期待できなくなったからだ。
こうした戦争特需を受けて、佐賀町周辺も大きく姿を変えた。町屋よりも企業のビル/倉庫が林立する街へと姿を替えたのである。そして今がある。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました