見出し画像

夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩3-3/クリュニー#03

https://www.youtube.com/watch?v=AudS6mL_0h4&t=10s

「どのくらいの修道僧が追い出されたの?」
「最後のミサに参加した僧は20人前後だったそうだ、史料を見ると509人の修道員がいたとある。宗徒は9,721人だったそうだ。幾つか群生する施設には8~10人程度の僧侶が分散していたという」
「こんな大きな施設に500人?」
「ん。クリュニー修道院は1600年代後半から収支の採算が合わなくなっていて凋落の一途をたどっていた。修道僧も新参者は稀で全体の平均年齢は47.8 歳だったという。前に言ったけど、衆院の収益は開墾で生み出されたワイン畑の売り上げと寄進だ。
https://www.amazon.com/Record-evidences-Among-Archives-Ancient-Abbey/dp/1290401802/ref=sr_1_1?crid=2N46YBU148J6O&keywords=abbey+cluny&qid=1699072655&sprefix=abbey+cluny%2Caps%2C225&sr=8-1

史料を見ると、50歳未満は281人。彼らの労働が修道院の収入を産み出していた。50歳から69歳までが168人。70歳以上が50人だったという。
その漫然と続く赤字体制を修正するために、1700年代に入って立て直しを修道院は図っていたところだったそうだ。そこにフランス革命だ。ひとたまりもなかったにちがいない」
「抵抗するも何もなかったわけね。それ以前の問題をかかえこんでいたわけね」
「ん。それでも町の人々が中心になった外から襲ってくる暴徒とは戦ったそうだ。しかし暴徒が去った後、次に入り込んでくる革命政府にはさすがに何の手も出せなかった。それで20年ほどかけて、修道院は粛然と解体まで持っていかれてしまった・・というわけだ」
「それでも町は‥残った」
「そう・・町は残った」
食事を終えて、町へ出た。
マルティエンヌ通りRue Lamartineを歩くと、昼よりも観光客の数は増えていた。通りには色々な店が並んで町らしい雰囲気だった。
「あら、色々とレストランがあるのね」
「ん。観光客が多いから繁盛してるだろうな」
リベルテ通りを右に曲がった。少し先にFerrand Givry Genevieveという病院がある。そのうらにHôtel-Dieu de Cluny(13 Pl. Dr Charles Pleindoux, 71250 Cluny)は有った。
http://www.apothicaireries.eu/
「修道院の中に薬事の組織が有った。その時代の設備が公開されている。医療は修道院の重要な業務だったからな」
入館すると薬局というより病院だった。薬局、病室、礼拝堂などがあった。


礼拝堂は荘厳な雰囲気だった。
「ここは燃えなかったの?というか・・転売されなかったの?」
「ん。病院として残ったから無事だったんだろう」
礼拝室からそのまま入る旧管理室は多数の中世の絵画が展示されていた。すべて宗教画である。
「ここのマグダラのマリアはとても有名だ」
その奥に薬局が有った。無数のガラス瓶に詰められた薬が並べられていた。
修道院の大きな仕事は、訪問者の歓待と周辺住民の健康などの管理だった。
修道院はその見返りとして大きな喜捨を受けていた。こうした薬事についてのノウハウは、当時最新なものを保持していた。全てローマから伝来した技術である。
「当時、旅行は危険に満ちていた。ガリア各地に建立した修道院は、こうした旅行者の安全確保の場所として大いに利用されたんだ。
それはベネディクト派の考えだった。貧しい旅行者の中にキリストの化身がいるとしたんだ。神への奉仕を確かめるために訪問者を全て受け入れた。褥を提供し、食事を出しワインを提供したんだよ。そして病む者には介護と薬事をもって救済した。訪問者の貴賤に関係なくね。
これが修道院。役目であり産業だったんだよ。領主たちが修道院に土地を寄進した理由の一つがこれだ」


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました