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葛西城東まぽろし散歩#03/大島03

番所跡のプレートがある旧中川岸から少し離れたところに「中川船番所資料館」がある。寄ってみた。
一階がエントラスと受付で2階3階が展示室である。入館料を払ってからエレベータで3階にあがった。
「もともと番所は小名木川の隅田川口あったんだ。その頃は"深川口人改之御番所"と呼ばれていた。それが中川・小名木川・船堀川の交差する中川口に移ったことは判っていた。寛文元(1661)年のころだ。でも実際に何処に移転したのかは杳として分からなかった。それが平成7年(1995)に同地の所有者である日本化学工業が拡張工事のための発掘をしたとき、続々と瓦片等が出土したんだ。どうやら此処が「中川船番所だったらしい」ということでね。急きょ江東区中川船番所遺跡発掘調査団が組成されたんだよ」
「へぇ、民間なんだ」嫁さんが言った。
三階はジオラマになっている。往時の中川船番所を正確に再現したらしい。しきりに嫁さんは写真を撮っていた。
「子供たちが来るのに良いわね。自分たちの町の昔が偲ばれるわ」
「ああ、民間が中心になって進められた。すてきだよ。こういうケースはママあるんだが、大抵は工事主に疎まれて"なかったこと"にされちまう。此処は幸運だった。汐留なんぞは、調べて跡は全部埋め返しちまったからな。触らぬ神に・・てぇやっだ」
「なるほどねぇ」
「中川は旧い。古利根川を上流として、途中で元荒川と合流してから、そのまま水元・新宿・奥戸・平井を通り、綾瀬川・堅川・小名木川と通じながら、江戸川に注いでいた。往時はロジスティックは川道だからな。関東平野の農作物や木材は、この道を通って江戸に向かって辿り着いていたんだ。しかし、ほとんど傾斜が無い所を抜けている。だから一たび大雨が有ると、川は氾濫して近在の人々にた多大な迷惑をかけていたんだ。何とかせにゃならぬということでね、8代将軍徳川吉宗が水害から村を守るために、享保10年(125)から14年間をかけて、散在してた池や沼を利用して、ひとつの流れを作ったんだ。それが今の中川さ」
「ずうっと徳川は治水の町だったのねぇ」
「ああ、江戸末期まで治水は徳川幕府の命題だった。ここはね「九十九(つくも)曲がり」って云われてね。ずっと蛇行が続く江戸近郊でも珍しい屈曲の続く川だったんだよ」

それでも旧中川は明治の御代に入っても、反乱を繰り返す凶暴な川だった。
明治44年(1911)、新たな開削決定後、大正5年(1916)から中川改修工事が行われ、昭和5年(1930)に荒川放水路(現荒川)および翌年(昭和6年)に中川放水路(現中川)が完成し、現在に至っている。以降、旧中川は中川の本流だったが、この改修工事で二つに分断され、昭和41年(1966)より下流部分を「旧中川」と改称した。

「このちょいと先に"かさ上げ護岸」という東京都江東治水事務所が出したプレートがある」
「かさ上げ護岸?」
「ん。明治の御代からの治水は、昭和46年に継がれたんだ。江東内部河川整備事業な。北十間川樋門から扇橋閘門あたりまで、周辺河川からダムを置いて、水位を他の川より低くしたんだ」
「流れないの?」
「ん。流れるのは少しだけだ」
「・・すごい」
「でもな。お盆の時だけ開ける。1999年から灯篭流しを慰霊として始めているんだ。このときだけ、木下川水門から取水して荒川ロックゲート側へ排水してるんだ。流れはゆっくりと下流へ流れてる」
「慰霊?3月10日?」
「ああ・江東区・城東は燃えた。工場地帯だったから、ほぼ100%が燃えたんだ。たった一晩でね。昨日まで、防空だぁ竹槍だぁって騒いでいたのが・・一晩で火だるまになって亡くなったんだ。その鎮魂だ。二度とそんなバカなことは起こさないという慰霊だよ」
「・・そう・・お盆?」
「ん。コロナでな止まってたが、去年から始めたようだ」
「そう・・来てみたいわね」
三階の「中川船番所資料館」の旧中川が見つめられるコーナーから、たおやかな/静かな川面を見つめながら言った。
「そうだな、来よう」
その小さな見学所に、まだ小学生に満たないお子たちを連れてお父さんがいた。まだ早いかもしれない。でも早いかもしれないけど‥何があったのか・・それはいつの間にか親から教わったほうがいい。僕はそう思う。

さて。「旧中川・かさ上げ護岸」である。
プレートを引用しよう。

「旧中川が流れるこの地域は、乱流する荒川(現隅田川)や中川、利根川(現江戸川)の河口部に堆積した三角州を埋め立て、江戸の市街地として発達してきたことからもともと低地であり、過去幾度となく高潮や洪水の被害を受けてきました。更に明治末期からの工業地帯としての発展に伴う地下水の過剰なくみ上げにより地盤沈下が進行し、現在の荒川と隅田川に囲まれた江東三角地帯は、東京湾の満潮水位以下となってしまいゼロメートル地帯とも呼ばれております。地盤沈下を防止・軽減するため、地下水揚水規制や水溶性天然ガスの採取停止などを実施した結果、昭和四十八年頃から沈下は急速に減少し、現在ほぼ停止しております。
急速に地盤沈下が続いた町を水害から守るため、旧中川を始めとする江東内部河川(江東三角地帯を流れる河川の総称)の護岸は、かさ上げを余儀なくなれました。しかし護岸は、応急対策としての度重なるかさ上げにより、まちと川が分断されるとともに構造的に脆弱化し、大地震が発生した際の護岸崩壊による水害の危険性が心配されてきました。

東京都はこの地震水害から地域を守るため、昭和四十六年より江東内部河川整備事業に着手し、北十間川樋門及び扇橋閘門より東側を流れる江東内部河川については荒川など周辺河川から締め切り、平常時の水位を周辺地盤より低く保つ「水位低下対策」を平成五年三月に完了させました。
ここに残された旧中川のかさ上げ護岸は、緩傾斜堤防の整備が完了したことを記念し、これまで水害から地域を守ってきた「かさ上げ護岸」の歴史を後世に伝えるとともに、低地帯に住む都民の皆様に水害に対する防災意識を継続していただくため、その一部を保存するものであります。
平成二十三年三月
東京都江東治水事務所」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました