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黒海の記憶#45/形骸化するビザンチンによる支配

ビザンツ人にとって黒海を挟んだ向こう側クリミア半島は、黒海沿岸諸都市どこよりも意味と価値をもっていた。
ケルソネソスKhersonisosである。ビザンツ商人たちは、ここを中継点としてステップ奥地から運ばれる木材・鉄製品・革製品そして奴隷を、衣料・ワイン・胡椒などと交換していた。仲介していたのはペチェネグPechenegs人だった。スラブslaves人である。彼らが使うスラヴ語はインド=ヨーロッパ語族の一つだが、出自はよくわからない。カルパチア山脈の北のヴィスワ川からドニェプル川にかけての一帯であろうと言われている。狩猟・半農耕種族である。4世紀ころから台頭するゲルマン民族に押されて次第に東進し、6世紀ころには黒海北部全体そしてバルカン半島に広がっていた。
ビザンツ人が残した記録によると、579年にスラヴ人集団がドナウ川を越えてトラキアに進出、580年にはマケドニアを占拠したとある。その拡散パターンは河川流域に沿って行われ、北はバルト海沿岸からバルカン半島そしてドニェプル川上・中流を中心としたロシア平原西部に至る。ペチェネグ人はその一派だ。
ペチェネグ人は、サルマタイやアランに替わって黒海北方を広くわがものにした一派である。ビザンツ人は、このペチェネグ人に、クリミア半島ケルソネソスの防衛を彼らに受託していた。・・というと聞こえはいい。実態は「防衛」という名の見ヶ〆料を払っていたのだ。なぜペチェネグ人に対してビザンツ人は弱腰なのか?実は、彼らは黒海北方に広がった正教の代理人でもあったのだ。ペチェネグ人が実質的にルーシ人やバルカン・コーカサスのキリスト教徒君主たちを一手に束ねていたのである。彼らを慰撫するためにビザンツ人は定期的に貢物を出し、ペチェネグ人はその仲介者として多大の利益を得ていた。
そして9世紀にはいると、スウェーデン系のノルマン人(彼らはルーシと言われた)が入り込み、これがスラヴ人と同化してノヴゴロド国を建国、ここからキエフ公国が生まれた。ロシアの起源てある。
このようにスラブslaves人は烏合拡散を繰り返し、他民族を取り込みながら、最終的にはロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ(白ロシア)人を組成していくのである。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました