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葛西城東まぼろし散歩#16/江戸より古い下総03

古利根川は、常総台地と下総台地の間を流れていた。二つの大地の間は高低差が殆どないので、水流は土砂とともに溜まって内海化した。それが香取の海だ。そしてその大きさは現在の東京湾に匹敵するものになった。
「じつは・・何とも不思議なのは、近畿に立ちあがった日本統一王朝が、なぜ1000km近く離れた香取の海を知っていたんだろうね。
香取海を制覇することが東国を支配する極めて重要なポイントになると・・なぜヤマト王朝は確信したんだろうね。不思議だ」
日本書紀では、景行天皇/ヤマトタケルは迷うことなく真っすぐ東征と称して香取海へ辿り着いている。
卷7景行天皇40年10月の条に、「爰に日本武尊、即ち上総より転じて陸奥国に入りたまふ。時に大きなる鏡を王船に懸けて、海路をとって葦浦を廻り、玉浦を横切って蝦夷の境に至る。」とある。
「知り合いがいたの?」
「・・知り合い、ねぇ。・・そうだね。それに近いかもしれない。・・史料がない。だからコッカからの話はあてずっぽうだと思ってくれてかまわない。
日本列島の各地で、その土地の覇者が生まれたのは2世紀から7世紀にかけてだ。この地方の豪族はどうやってその土地を制覇したんだろうか?長い縄文文化から自然発生的に生まれたんだろうか?実は、そうは思えないんだ。」
「どうして?」
「一つは立農性だからだ。採集生活から派生した原始的な焼き畑農業ではない。灌漑を利用した稲作を行っている。そして覇者たち豪族の墳墓だ。大陸的な朝鮮半島的な古墳を作っている。合掌形石室な」
「つまり?」
「つまり、九州・中国地方・近畿地方と同じように、東海・関東・それ以北も、実は大陸からの移植者によって制圧されたんだろうということだ」
「すごい話ね・・そのあなたが大陸的という古墳って、日本はどのくらい北まであるの?」
「新潟県胎内市にある城の山古墳(前方後円墳・全長約62メートル)が最北端だ。4世紀前半に作られている。・・ひとつだけ、ポツリと北海道江別市の江別古墳群があるが、これは8-9世紀、北海道における擦文時代のものだ。これは例外としよう」
「馬牧も?」
「ん。6世紀ごろには持ち込まれている。朝鮮半島からだろうな」
「でも朝鮮民族ではない?」
「ん。ソウルの国立博物館を訪ねた時に話した。朝鮮半島は、長い間中国中原の覇権に敗れた人々の逃避場所だった。渤海・黄海を挟んで、逃げ込みやすい場所だったんだ。朝鮮半島の北部は厳冬でね。北から降りてくるヒトは殆どいなかった。南に親潮によって流れてきた漁民たちだけが暮らしている場所だったんだ。逃亡してきた人たちはロクな抵抗もなく、朝鮮半島に拠点を置いたんだよ。そんな流民してきた派遣に敗れた民が何回にも分けて幾つもの国を半島内に作った。そしてこれらが拮抗して長い戦いを繰り返している」
「日本列島にも、そうした戦いに敗れた人々が渡ってきたの?」
「ん。もちろん、だけではない・・しかし、わざわざ故国を捨てて、海を越えて新しい住処へ移るには、何かの理由があったろうな・・
ということは?」
「ということは?」と嫁さんが不思議な顔をした。
「つまり・・あなたのいうとおり・・しりあいだったということさ。何らかの形で、香取の海を真ん中に置いて関東地方を支配していた人々は、豪族は・・何らかの方法で、近畿地方でヤマトの覇権闘争に勝った王朝が現れたことを知っていた・・ということだと僕は思うな。ヤマト王朝ってぇのは、カリスマ的な独裁者によって成立した国家じゃなかった。たしかに王はいた。しかし実態としては周辺の豪族たちが連合して組織化された集団、指導体制的政権だったと僕は思う。それなンで、各地の主要な連合体や独立小国を武力や外交によって服属させる体制を、当初から構造的に持っていたと思うんだよ」
「なるほど・・だから早くから関東の豪族はヤマト王朝をしっていたというわけね」
「間違いないと思う。景行天皇/ヤマトタケルを誘致したのは、香取の海を支配していた豪族だったんだ。だから東征に対して全面戦争も起きていないし、過去の豪族たちがそのまま国造りの長として継承されたんだよ」
『常陸国風土記』を精読すると、その片鱗が伺い知れる。

「おそそらく物部氏が重要なキーパーソンだったと思うな」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました