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夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩4-7/バスを使ってヴォーヌ・ロマネ歩き#07

しばらく丘陵沿いに走ると、道が未舗装になった。
「え。大丈夫?間違えてない?」
「コレを抜けるとD109へぶつかる」
未舗装を渡りきるとD109の五差路へぶつかった。
「あ・ここ・・」
「ん。Cros Parantoux(21700 Vosne-Romanée)の前を通る道だ。アンリ・ジャイエの畑だ」


「入るの?」
「今日は入らない。ホントは自転車降りて見に行きたいが、置いとけないもんな。このままD109を下ろう」
ゆっくり300mくらい降りたところで、Cros Parantouxから下りてきた未舗装路にぶつかった。立ち止まって降りた。
「ここからだと見えるな」
「・・わかりにくい」
「ん。全部、周りとも葡萄畑だからな」
そのままロマネコンティの十字架がある道を右横に見ていくと、左にいく縦T字路がある。これを左へ曲がった。そのまま直進700mくらいで十字路を越えた。もう一度自転車を降りた。
右側がGrands Echézeaux(21640 Flagey-Echézeaux)左側がEchezeaux(21640 Flagey-Echézeaux)だ」
「大きな畑ねぇ」

https://www.wine-searcher.com/find/dom+de+la+romanee+conti+grandsechezeaux+grand+cru+cote+nuit+flagey+echezeaux+burgundy+france/1/france

「クロ・ド・ヴージョが一番大きいが、エシェゾー、グラン エシェゾー二つ合わせるとそれに次ぐ大きさだ。37ヘクタールあるそうだ。

ここはDRC同時の創始者であるジャック マリー デュヴォー ブロシェJacques-Marie Duvault Blacheが1869年にリシュブールと共にかった土地だ。ブロシェによってロマネコンティは我々が知る形にまとまったんだよ。彼はサントネSantenayで財を為した生産者だった」
「あれ?ロマネコンティが出しているヴォーヌ・ロマネの名前でしょ?」
「おお!そうだ。DRC Vosne-Romanee 1er cru Cuvee Duvault Blachetだよ。創始者デュヴォー ブロシェに敬意を表して付けられた名前だ」
「ふうん、そうなんだ」
「革命の時、ロマネ・コンティもズタズタに分断された。それをまとめたのがニコラ・デフェール・ド・ラ・ヌエールNicolas Defer de la Nouerreという革命側の一人だ。彼はこれを銀行屋だったジュリアン・ウヴラールJulien Ouvrardに7万8,000フランで売りつけた。1819年だ。当時、ウヴラールは政府にへばりついて銀行業で大儲けしてたからな。しかし次第に行き詰って破産しちまうんだが・・パリ博の前年度の1869年。入札でサントネの大地主ジャック マリー デュヴォー ブロシェJacques-Marie Duvault Blachetが手に入れているんだよ」
「色々変転したのね」
「当時、すでに有名な土地だったからね。
・・ところが実は、ブロシェはせっかく買った畑の葡萄をせっせとサントネの自分の農園に運んでいた。ロマネでは醸造しなかった」
「え~!どうして??」
「まだパストゥールが醸造の原因を解明していなかったからな。なぜワインができるのか/なぜワインができなくなったりするのか、まったく判らなかったんだよ。経験値しかなかった。だから確実に安定して生産できる自分の醸造所にブロシェは運んでいたんだろうな。彼は40年間、ロマネの葡萄をサントネまで運んでいたんだよ」
「40年も!!」
「1911年、相続人の一人だったエドモン・ゴーダン・ド・ヴィレーヌが、タン・ペルデュ通りのサン・ヴィヴァン・ド・ヴェルジー修道院から古いヴォーヌ・ロマネで使われていたブドウ収穫機を購入して、ワイナリーではなく敷地内でワイナリーを作り始めたのが再スタートだった」
「ということは・・1911年まで、いまのロマネ・コンティは存在しなかったの?」
「ん。その通りだ」
「あらま」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました