ナポレオン三世の足跡を#05/ルーブルとナポレオン三世
しばらくぶりのルーヴル探訪を済ませて、目の前にあるLe Nemoursへ席を移した。このあたりのカフェは何れも観光客で混雑しているが、ガルソンの対応がテキパキしているからストレスは無い 。
カフェオレを手にして家内が言った。
「ナポレオン3世って、ナポレオンの孫なの?」
「いや、甥っ子だ。弟の子供だ。」
「ナポレオン2世っていたの?」
「ん。嫡子だ。ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ・ボナパルトNapoleon Francois Charles Joseph Bonaparteだ。21才で亡くなってる。1815年、4才のときに2週間ほどフランス王になってる。ナポレオン1世が指名した。フランソワは美形でね、そのうえ聡明だったんだが、あまりにも悲運な人だった。結核を患って亡くなっている。」
「美形で悲運な若王?ドラマになりそう。」
「母はナポレオン2回目の后ルイーズだ。彼女はナポレオン1世が失脚すると、新しい亭主を求めて奔走していたから、フランソワは放置されてた。彼が産まれ育ち始めた頃はナポレオン最逆境のときだから、父から愛を受けることも無かった。孤独なまま周囲の利害に振り回され、最後には病を得て斃れた。どうもナポレオンの周りは、そんな人が多いんだよ。ナポレオン3世も病弱だったしね。晩年は腎結石に悩まされている。激痛を避けるためにモルヒネ漬けのまま亡くなったんだ。」
「不幸な晩年だったのね。」
「ナポレオン1世は、戦いの中で勢力を伸ばし始めると、側近にどんどんと親族を起用した。そして近隣の王家と片っ端に政略結婚をさせた。史家が『家族統治』と呼ぶやり方だ。残念ながらナポレオンの場合、成功不成功が交差した。彼自身が波乱万丈だったせいもあり、彼に楯突く親族もいたんだ。彼によって要職に就いたにも関わらずね。・・助けてもらえば、感謝がいつの間にか当たり前になり、助けてもらえなくなれば恨む・・というやつさ。」
「親類縁者の中には色々な人がいるでしょうしね。」
「ん。有能な人ばかりじゃないのは当たり前だ。家族統治はメリットに相反するデメリットが多いものさ、」
「兄弟が多かったの?」
「全部で彼を含めて7人。年齢差は広い。
父は、コルシカ/アジャスチカに暮らしていた法律家だ。彼は次男だ。兄ジョセフ、弟ルシアン、ルイ、ジェロームがいた。妹が三人いた。エリーザ、ポリーヌ、カロリーヌだ。
兄ジョセフは、ナポレオンの側近として生きた人だ。三男ルシアンもナポレオンの施政には大いに貢献した。四男ルイも軍役に就いた。・・その子がナポレオン3世だ。ルイはあまり有能ではなかった。五男ジェロームは酷かった。放蕩三昧をした男だった。妹たちは、ナポレオンの七光りでそれなりの家へ嫁いでおり、実はナポレオン家で一番幸せだったのは妹たちだったかもしれない。」
「ナポレオンの子供というのは、早世したフランソワだけなの?」
「うん。嫡子は彼だけだ。愛人との間に2人子供がいる。
レオン伯シャルルとアレクサンドル・バレフスキだ。
シャルルは面白くてね。些細なことで後のナポレオン3世と揉めてね、決闘騒ぎを起こしている。
バレフスキは、ナポレオン3世の側近として第ニ帝政時代には要職に就いた人だ。」
「波乱万丈な一族だったのね。」
軽い昼食の後、そのままパレ・ロワイヤルPalais-Royalを抜けてそぞろ歩いた。パリをハじからハじまで知ってる訳じゃないけど、地図なしで歩くぐらいは出来るから、そのまま北へ歩いた。
「パレ・ロワイヤルは、オルレアン家の私的宮殿だった。オルレアンはブルボン朝時代から続く王族だ。ところが18世紀に入って続く動乱のために、すっかり凋落してしまった。もうこの宮殿を売り払うしかないところまで行ったんだ。」
「パリ革命のころ?」
「ん。ところが5代目当主だったフィリップが妙案を思いついた。ここをショッピングセンターにしちまおうというアイデアだ。小間別けして賃貸にしてしまおうというアイデアだ。こいつは革新的でね、だれも思いつかなかった。 もちろん先例はある。一番デカいのは、モスクだな。」
「モスク?モスクってイスラム教の寺院?」
「ん。イスタンブルの旧市街地にあるアレだ。アレは、寺院が2階以上でね、1階は迷路のようなショッピングアーケードになっている。寺院が大家でね、小間借りしてる人たちは店賃を払っている。寺院はその収入で遣り繰りをしてるんだ。たいしたアイデアだろ。フィリップは此処を宮殿付属のソイツにしちまおうと思ったんだ。これがド当りした。1700年代の後半、此処はパリ最大の歓楽地になったんだ。」
「いまは、そんな面影はないわね。」
「ん。あまりにも急激に発展したんであっという間にアヤシゲなところになっちまった。新宿の歌舞伎町あたりと一緒さ。あスこだって、ムカシはあんなに猥雑なところじゃなかった。繁栄は襟を正さないままでいれば、必ず汚濁に墜ち込む。1800年代に入って、ナポレオン3世がパリの大改革を勇断した時、当時のオルレアン公が共感し、此処に有った全ての商店を追い払い、パリ大改造計画の一翼を担っていた設計家ピエール・ルイ=フォンテーヌに建築を依頼して今の形になったんだ。」
「なにも無くなったの?」
「ん。何も無くなった。でも問題は無かった。実はこのフィリップのアイデアはすぐさま模倣者が多出してたんだ。パサージュ・クーヴェルLes Passages couvertsってやつさ。いまこれからその夢の跡を見に行こう。」