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葛西城東まぼろし散歩#24/行徳塩田#02

「行徳塩田と江戸城城付地を繋いだのが小名木川だ」
「中川船番所資料館へ行ったときに歩いた川ね」
「ん。家康は江戸城開府のために周辺の整備も考えていた。都市に塩は必須だからね。家康は江戸に入ると、すぐに小名木四郎兵衛に命じて行徳と江戸小網町の間の水路開鑿を始めているんだ。
彼は新田の開拓もしてる。小名木川村という新田が川の北側にあった。正保改国図には「うなぎさや堀」とあるから、おそらく前身はこれだろう」
「"うなぎさ堀"が"おなきがわ"?」
「うん。ちかい名前だな。それなんで小名木川の由来はこちらで、小名木四郎兵衛という名前は後から付けられた・・という説もある。
『塩浜由緒書』を見ると『行徳道にして西船堀村へ達す、船路凡五丁許此渡慶長十六年伊奈備前守奉り当村にて指揮する事を命すと云う。船渡場而本行徳河岸場小網町但行徳河岸迄河路三里余右是者百六拾三年前寛永九申年船往還之儀伊奈半十郎様被仰付、当村小網丁岸橋迄安房・上総・常陸・下総旅人遭送候、年中 御公儀樣御用人樣方其外御大名様方御参府井御発足御私領方御役衆中樣迄御用人馬老村ニ而相勤申候、其上屋敷八町七反四畝五十之所江反二永七百五拾三文宛屋敷増御年貢与申永納六拾五貫八百廿五文ツ、年々御上納仕候、当村岸橋船賃之訳井継馬之訳左二記申候』とある。
徳川幕府にとって、塩田のある行徳と江戸との流通網を整備の確保がいかに重要だったかがわかるな」
「『塩浜由緒書』?よくそんな名前がポンポンと出てくるわね。ウチの本棚に有った?」
「ない。でも公文書館にはある。すごい本だよ。この本は明和6年(1769、行徳領の塩田に対する年貢減免を願い出た際に行徳側から提出されたもんだ。国立史料館に『行徳領塩浜之儀ニ付小宮山杢之進覚書』が有るけど、内容は同じだ。
行徳に上総国五井から製塩が伝わった経緯、徳川秀忠が江戸城御舂屋に行徳の塩の納入を命じたこと、徳川家光が鷹狩の際に船橋御殿にて行徳の人々に引見して下り塩によって行徳の塩が絶えることがないように指示したこと、家康以後3代の将軍が必要に応じて行徳塩田に資金を提供して年貢を減免したこと、徳川吉宗が下り塩は天候が悪いと江戸に入ってこないと指摘して久しく途絶えていた行徳塩田への支援を再開したなんて話が書いてある。」
「読んだの?」
「ん。読んだ」

「五井村から塩田技術が伝えられた、という話はここに載ってる」
『行徳領塩浜之儀、元来上総国五井与申所ニ而往古塩ヲ焼覚江家業之様ニ致候ヲ、行徳領之もの近国之事故折節罷越見覚候而、当村拾四ヶ村之内本行徳村・欠真間村・湊村三ヶ村之もの習候而、行徳領村附遠干潟砂場之内ヲ見立、塩を少々宛焼習ひ、其節者渡世仕候程之儀二者無之、自分遣い用迄之塩を焼候処二、近所百姓共段々見習ひ焼方を覚江、他所へも出し候得共、其節者塩年貢与申者も無之候』とある。これから見ても、家康が江戸御討入り以前から、塩浜は塩焼が行われていたようだな。行徳塩田は、塩を生産し拝借金を与えられた地域だったんだよ」
「幕府に守られていたわけ?」
「ん。塩田は転変地異の影響をすごく受ける。天気が暴れれば全く塩が出来ないことも有った。しかし都市を維持するためには必須な食材だ。だからある程度、公的な保護は必要だったんだろうな。しかし製塩だけを主な仕事にはできなかった。男女農業之間稼だった。
天保9年(1838)に出された今津朝山村の『村差出書上帳』に『男女農業之間稼、男女とも浜二出、浅・蛤とも、男野方え売出申候、又は日刺相続候得は塩稼第一仕候』とある。延享2年(1745)の『野手村書上』にも『漁猟之網拵、或い塩焼稼仕候』とある。
『塩釜之事』には『是い先年幾郷ト申塩焼組入御座候え共、其後地引網稼専一二仕候故、当時ハ農業魚漁之手透を見合、人夫多キ者自分ニ遣イ塩斗相焼候事ニ御座候』とある。塩浜稼ぎは男の農間余業だったんだよ」
「どうして?儲からなかったの?」
「いや、出来不出来が激しくて安定した収入にならなかったんだと思うな。塩田そのものも天変地異で始まったりつぶれたりするものが沢山あったんだ。
木更津市が出している『木更津市史』 を見てみると 「中島、瓜倉村では、安土、桃山時代から江戸時代初期にかけて製塩が行われたことは中世史でも触れてあるが、これらの塩田も江戸時代初期からは次第に廃田となり、水田としての開発が行われた」とある。
産業として難しかったんだろう。
・・大変でも廃止されちゃあ困る。五井や行徳はキッチリと生産を途切れずにいてもらうしかない。それなんで、小名木川の開鑿と共に、行徳塩田の生産者たちに対して、徳川幕府は生産のための拝借金貸付を積極的に行ったんだ」
「だいじな産業として保護したわけね」
「ん。家康は江戸周辺の塩浜に対して塩年貢・塩浜役永の負担も少なくした。そして焼き塩に使う薪炭を供給する塩浜周辺の地域に対しても、山手役や野場役としての負担を塩で納入させたりしたんだ」
「それでも・・明治まで?」
「そう・・製塩は台湾に移った。同地で安価に大量に塩は作れるようになった。国からの保護政策もなくなった。それなんで国内の製塩業は明治の終わりに殆どが消えてしまったんだ」
「なるほどねぇ」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました