見出し画像

日本国名の由来を追って#15/三韓三国時代の朝鮮半島

AD300年頃、騎馬兵を備えた高句麗が朝鮮半島を南下しました。彼らの始祖はウラル山脈付近カザフステップあたりから東へ移動し、モンゴル/満州に拡がった騎馬民族です。高句麗は扶余族だったと云われています。
高句麗は勢力を伸ばし始めると、楽浪郡北部を征服。さらに領地を拡大し朝鮮半島北部を我がものにしました。最盛期は広開土王の代(AD300中頃)です。
既に朝鮮半島内で領地を持っていた秦と東方六国(斉/楚/燕/韓/魏/趙)の人々は、この高句麗との戦いに否応無く巻き込まれていきます。しかし攻める者と守る者力の差は歴然です。このとき、多くの半島内に暮らしていた秦と東方六国の人々が海を渡って日本列島に逃れたのだと思われます。
最近になって発見されている北九州や中国地方の墳墓類の中に、釜山市近郊の金海礼安里古墳群から出土するものと同形類のものが幾つも見つかっています。金海礼安里古墳群は伽耶人の遺跡です。彼らが日本へ渡ったことは間違いないでしょうね。

ほぼ200年くらいのタイムスパンで、かなり沢山の避難者が海を渡り、北九州から中国近畿地方に居を構え勢力を伸ばしたと考えられます。
その中には、おそらくかなりの力を備えていった人々もいたのではないでしようか?それを伺わせるのは、半島側と日本列島側諸国との間に頻繁な行き来が始まるからです。
AD475年、高句麗の攻撃によって百済が首都漢城(漢山城/現ソウル松坡区)を失って遷都したとき、百済は日本列島に有った国へ助けを求めています。つまり助けを求めるほどの関係が両国の間に有ったということです。
それともうひとつ。この時期から中原の王朝への使節が始まります。使節団はおそらく普通に漢語を話し、漢の礼節を熟知している人々だったのでしよう。

ちなみに高句麗の一部だった新羅は、勢力を伸ばすと、唐と軍同盟を結び百済・高句麗を攻撃し滅ぼしてしまいます。朝鮮半島の大部分は新羅が統一(AD600年頃)を果たしています。この統一は長続きしませんでしたが、この制圧で百済・高句麗は離散してまいました。おそらくこの前後から百済の人々共に高句麗の中の一部の人々もまた日本列島へ入ってきたのではないでしょうか。
有名な江上波夫先生の「騎馬民族征服王朝説」は、この高句麗人の渡来を指しています。しかし・・いまのところ、この騎馬民族が連れてきたという馬のDNAは、日本の飼育場の中で発見されていません。傍証がない・・

しかしですね。面白いことに高句麗人ですが、ウラル・アルタイ語族だったのです。史書の中に異語を話すとありますから間違いないでしょう。・・そうです。アルタイ語なんです。
アルタイ語族は、トルコ語や中央アジアの言語を含むチュルク語族、モンゴル語を含むモンゴル語族、満州などで話されるツングース語族です。前述ウラル山脈付近カザフステップに誕生し拡散した人々が使った言葉です。日本語とトルコ語が、きわめて相似なことはよく言われますが、南から日本へ入ったオーストロネシア語。南越から日本へ入った稲族(弥生人)たちと同形言語だったのです。

これはとても面白い偶然ですね。日本列島は幾つもの民族が渡り移り「原日本人」を組成していくのですが、その使った言葉は全て同形・非インドヨーロッパ語だった・・というわけです。やまとことばは、こうして出来上がりました。
そして、AD500年頃から、近畿平野で現日本王朝の祖形が出来上がっていきました。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました