見出し画像

僕のベトナム戦争/僕のマンハッタン: 1970-1990 Kindle版

僕が最初にサイゴンを訪れたのは1970年のクリスマスだった。アメリカから戦場へ慰問に来る某有名歌手のバックバンドとしてKOZAから戻った直後に横田で雇われて、そのまま輸送機に乗せられた。仕事は、マネージャーだった三舟さんからの指示だった。
ベトナムの前戦基地には何回か行っていたがサイゴンで仕事するのは始めてだった。「非番の時は街へ出て見ろよ。良い街だ。」三舟さんが言った。
ツアーはコザから始まって、クラーク/スービックそしてタンソンニャットというスケジュールだ。すべてワンナイトオンリーだった。ギャラは良かった。ドルが300円だった時代だ。
ツアーが終われば、バックバンドは現地でハケることになっていた。僕はマネージャーからの指示でそのままサイゴンに残った。そして基地内に有る士官クラブで演奏した。
ギャラが良ければ、どんな仕事でもした。大学の授業料の工面は自分でしていたからね。夏と冬の休みで、あらかた稼がなければならなかったンだ。だからツアーが有れば、それが前戦に赴くものでも請けた。命をテーブルの上に置いて稼いだ。
あの年もクリスマスの後、そのままタンソンニャット基地に残ったんだけど、下士官クラブでの仕事は三交代制だったから、空きの時間が勿体なくて街場の仕事を回してもらった。
サイゴン川が鋭くヘアピンカーブする所に、マジェスティック・ホテルというのが建っている。僕が出演していた店は、その前から始まるトゥゾー通りをしばらく行ったところに有った。トゥゾーというのはベトナム語で「自由」という意味だったが、たいていの人は旧名のままカチナと呼んでいた。店の名前もそのままカナチだった。品の良い店だった。
僕の仕事は、その店で絵に描いたようなカクテル・ピアノを弾くことだった。1001という唄本が有ってね。それに載てるスタンダードを演奏した。仕事は楽だった。チップも割ともらえた。とくにC&Wの名曲が喜ばれて、たしかDon't Fence Me InとかHowlin' at the Moon。A Fool Such As I なんかをセッセと弾いていたと思う。
仕事は夜の8時からだったが、ステージがハねるとバンド仲間がジープで迎えに来てくれて、基地の中にある宿舎へ戻るという生活をしていた。
正月が明けたある日。セオムに乗って仕事場に行くと。店が焼け落ちていた。
前日の夜。爆破テロが有ってぶっ飛んだらしい。店は瓦礫の山になっていた。未だ彼処に煙が立っていた。
僕は店の前で呆然とした。もしテロが・・今夜だったら。間違いなく僕もぶっ飛んでいた。鳥肌が立った。
しかし・・まちがいなく、僕にもぶっ飛んだものがあった。貰えるはずのギャラだ。ギャラはトッ払いじゃなくて、週末渡しだったからね。こいつは見事にぶっ飛んだ。文句を持っていく場所がない。僕はスゴスゴと基地へ帰った。
でも、かなり大きな金額だったから、基地に帰ってからU.S.O.の係官に泣きついてみた。そしたら冷笑された。
そして怒鳴られた。
「お前、此処がどこか忘れてるのか?お前ら慰問部隊というのはな、武器をもたない兵士なんだ。お前たちは、金を貰って戦地に来ている傭兵なんだ。ナマクラな泣き言を言いに来るな。お前の代わりに死んじまったピアノ弾きを悼め。明日、黒焦げになって転がってるのは、お前かもしれないんだぞ。」
僕は慄然と立ち尽くした。バットで殴られたような衝撃だった。首を項垂れてステージに戻った。
U/S/Oの係官が机の向こうから怒鳴った「武器をもたない兵士」「傭兵」という言葉は、僕に深く突き刺さった。
手を汚していないつもりだった。でも戦場で、汚れない手なんて・・あり得ないんだ。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました