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ボルドーれきし ものがたり/3-10 "ゲルマンの西進"

カエサルが謀略で斃れ、それでもローマが帝政期に入った後、ガリアの地にある属州は元老院直属管理のナルボネンシス属州(アルプス以南)と3つの元首管理の属州ルグドネンシス、ベルギカ、アクィタニア(アルプス以北)に纏められた。そしてルグドゥヌム(リヨン)を全ガリアの属州会議の開催地とした。

以後、ルグドゥヌム(リヨン)はガリア内の重要な拠点となり、ここを中心に四方へローマ街道が敷かれた。このローマ街道で繋がれた各地の主要都市は、産業拠点として大発展を遂げていく。つまりローマ化していく。僕はその過程を見つめていると、カエサルの北征の歴史的な必然性を疑ってしまう。彼の北征が無くても、おそらくガリアは緩慢にそして着実に「ローマ化」しただろう。

おそらく・・ルグドゥヌム(リヨン)/ブルディーガラ(ボルドー)/トロサ(トゥールーズ)/ケナブム(オルレアン)、アレラテ(アルル)/ルテティア(パリ)など、当時のガリア6大都市は、産業拠点としてガリア的な地方都市から、ローマ的な"特区化"へ進化を果たしただろう。僕はそう思ってしまう。

唯一、カエサルのガリア蹂躙に意義を求めるならば・・それはゲルマン人の西進を一時的に抑えたことだろう。カエサルは戦いの中で、実はガリア(ケルト)人以上にゲルマン人を、ローマとは異質な民で有ることを熟知していた。その勇猛さは、土地に縛られない狩猟民族の勇猛さであると。しかし・・ということは、戦っても(カエサルには)大した収穫物がない相手でもある。したがってカエサルは、彼に奉ろわぬゲルマン人は叩いたが、そうではない部族については傭兵として対ガリア戦に私用するという姿勢を通した。しかし・・それが結果として、ゲルマン人の武器を近代化させ、カエサルが去った後、ガリアが今度は近代的に武装化したゲルマンの侵攻に悩み続けるようになって行くのである・・そして時代とともにゲルマンの脅威はローマ属州だけではなく、ローマ本体も揺るがすことになっていく。

さてこの狩猟民族としてのゲルマン人の気質だが。深く西欧社会に残っている。ちなみに国民皆兵を是とするスイスが、その憲法で女性参政権を認めたのは1971年である。スイス全土が女性参政権を認めたのは1990年。北東部のアペンツェル・インナーローデン州が最後まで女性の参政権を認めなかった。 そこに僕はゲルマン族の「戦える者(狩猟できる者)だけを成人として認める。年齢ではない」という考え方の延長線を見てしまう。 つまり共同体に益為す武装者が"成人"であり、発言権を持つ。今風に云いかえるならば・・市民権を持つ。ゲルマンにとって参政権とは兵役の義務を持つ者に与えられるもの・・なのだ。
この気風は、現代でも欧米社会に大きく残っている。 戦わざる者に国の進む道を決める権利はない、という姿勢である。 したがって「永住権グリーンカード」には納税義務があるが、参政権のある「市民権」には徴兵義務が伴うのだ。もちろん徴兵は義務ではなく任意になっている国も多いが、基本的な姿勢は之だ。

論を進める。 最初の千年紀に入ると、ゲルマンの侵攻はより激しくなった。ローマの衰退に乗じて、その勢いが増したのである。そしてついに193年、全ガリア属州会議の地であるルグドゥヌム(リヨン)が陥落、蹂躙されてしまう。略奪後、彼らはライン川の向こうへ去るが、これは大きな衝撃をローマ/ガリア属州に与えた。

そのため258年。ローマは、ライン川に沿って防衛線の機能を持ったガリア管区(トリエル)/ウィエンナ管区(ウィーン)を設置するが、300年代に入るとゲルマン人の侵攻はさらに激しくなり、ガリアの諸都市は一方的な防衛戦に終始するようになってしまった。当時作られた長城跡リメスLimesが、現在でもドイツのライン川とドナウ川の間に残っている。

そして400年代に入ると、アラン人/ヴァンダル人/スエビ人/ブルグント人/ゴート人/フン人までもが侵攻し始め、418年に南ガリアに西ゴート王国が誕生、443年にはローヌ川流域にブルグント王国が誕生する。同時に東西に別れたローマ帝国は、西側が呆気なくゲルマンによって滅ぼされてしまうのだ。 そのまま400年代末には、ガリア(欧州)の大半がゲルマン人の支配下へ落ちてしまうのである。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました