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ボルドーれきし ものがたり/2-3 "ブルディーガラの戦い"

租税回避地(タックスヘイブン)だったブルディーガラ(ボルドー)は、膨大な富が集約する地になると、ナルボンシスから来た商人/豪農たちによって、急速にローマ化し巨大化していきました。富に任してあらゆるものがローマから運ばれ、ブルディーガラはほんの数十年でまさに小ローマになっていったのです。それは地中海側のナルボンシスも同じでした。商人/豪農は金にモノを云わせて最新の文化をローマから取り寄せ、我が世の春を謳いました。

元々ブルディーガラはケルト人ビトゥリゲス・ウィウィスキ族Bituriges Vivisciが作った交易用の砦でしかなかったわけですが、300年ほどで大変身を遂げる過程で、飛び地のように周辺に散らばっていた交易地を次々と呑みこんで行きました。例えばメドックのサンジェルマン・デステイユSaint Germain d’Esteuilなどは有名で、ここではローマ式の劇場(収容人数2000~3000人)や寺院なども発掘されています。

このブルディーガラに暮らす人々の人構成は、ナルボンシスから来たローマ人(出自は様々だがラテン語を話す)、そして北からのケルト人(印欧語を話す)、そして地元のアキタニア人(アクテリアン語を話す)です。しかし時代とともに混血し始めると、持ち込まれたローマ文化も、次第に特異なガロロマンと呼ばれる形式に変化していきました。
ここに僕は大きなキーワードがあるように感じます。
彼らはガリア戦争(ブルディガラの戦い)に加担しなかったのです。

ブルディーガラの戦いBattle of Burdigalaは、B.C.107年にガリア人/ヘルウェティイ族の支族ティグリニ族とローマの間に起こった戦争です。この戦いで、ガリア人ディウィコ王に率いられたティグリニ族は、ロンギヌス率いるローマ軍を破っています。

ブルディーガラのケルト人たちはローマ同盟軍側でした。敗戦組でした。しかしロンギヌス戦死後敗走したローマ軍は、すぐさま大カエピオ Quintus Servilius Caepioによって再編成され、猛烈な巻き返しを行いブルディーガラ周辺のヘルウェティイ族を蹴散らしています。ビトゥリゲス・ウィウィスキ族にとってカエピオは正に救いの神だったのです。

ちなみにこの戦いで得た戦利品は、ローマへ送る途中、盗賊によって奪われてしまったとカエピオはローマに報告しています。しかしどうもこれは彼の自作自演だったようです。

そのカエピオですが、アラウシオの戦い(B.C.105年/ローマ属州のガリア・ナルボネンシスのアラウシオ近郊で起きた)では、キンブリ族らと合流したティグリニ族に敗走しています。その大敗に元老院は激怒し、命からがら戦場から逃げ帰ったカエピオは弾劾裁判に掛けられて、市民権の没収や莫大な賠償金など厳しい判決を受け、小アジアへ亡命した後、そこで病死しています。

このブルディーガラの戦いの遠因となったキンブリ・テウトニ戦争Cimbri-Teutons Warは、B.C.300年頃から度々起きているガリア・ローマ戦争のひとつでB.C.113年からB.C.101年に渡って行われたものでした。ブルディーガラの戦い/アラウシオの戦いの大敗によって、衝撃を受けたローマはマリウスが軍制革命を進め、軍事だけでなくローマ社会そのものの大幅な変革を行います。そして、この戦いを引き摺って始まるカエサルによる遠征によって、ガリア人とローマの関係は大きく蠕動し、ゲルマン人台頭の誘導要因となっていきます。

後述しますが、ブルディーガラを通って自分の所有する属州へ戻ったカエサルは、その著「ガリア戦記」のなかでガリア人そのものを三大分類(アキターニア・ベルガエ・ケルタエ)しておりますが、彼はブルディーガラのガリア人を「アキタニア人である」と記述しています。たしかにアキタニア人はいましたが、同地におけるガリア人の主体はやはり印欧語を話すケルト人で、どちらかというとブローニュ・シュル・メールBoulogne-sur-Mer辺りを支配していたモリニ族Moriniに近しい出自ではないかと僕は考えています。(ガリア諸族とローマの諍いについてはいずれ別稿で)

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました