見出し画像

夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩4-3/バスを使ってヴォーヌ・ロマネ歩き#02

https://www.youtube.com/watch?v=XA9_KAqINlk

食事の後、ホテルの前を通り過ぎてフォンテーヌ通りRue de la Fontaineを畑のほうへ歩いた。
「フォンテーヌって名前、泉があるの?」
「ん。さっき言ったVaonaだよ。Bornue川が繋がっている。ホテルのすぐ裏だ。でも此処も川と一緒に暗渠になってるから見えない。村の大事な水源だ」
「・・そう。見えないの。村の大事な水源なのね」
「ん。2000年ちかくな」
フォンテーヌ通りを歩くと右側にいくつかのドメーヌが並ぶ。
Domaine Leroy SCE(15 Rue de la Fontaine, 21700 Vosne-Romanée)+33380611082
Dominique Mugneret EARL(9 Rue de la Fontaine, 21700 Vosne-Romanée)+33380610097
Domaine Michel Noëllat (5 Rue de la Fontaine, 21700 Vosne-Romanée)+33380613687
https://www.domaine-michel-noellat.com/
唐突に訪ねるのは無礼だ。訪問客は歓迎してくれるがアポは必須である。
少し先にいくと左側に「Clos Des Réas」の門が見える
Clos Des Réas(Rue de la Fontaine, 21700 Vosne-Romanée)
門の向こうに美しい葡萄畑が見える。
「グロ家の畑だよ。ミシェル・グロが丹精込めて作り上げた畑だ。」

「そうね、グロのワインって、よく飲むわね。一度行ったわね」
「ん。大きな一族だ。この畑の持ち主だったROS家から始まったそうだ。1830年だ。憶えているかい?1830年」
「七月革命のときね。フランス中の教会や貴族が殺された年ね」
「ん。この辺りはシトー派の畑だった。僧侶たちはギロチンに遭って、彼らの畑は小作人たちに分配された。その受け取った小作人の1人がROS家だ。持ち主がグロ家に換わってから分断されていた畑は彼の一族に買われて、いまはモノポールになっている。安定した素晴らしいピノ・ノワールだよ」
「なるほどね。自分たちの畑になって、丹精込めて育てたのね」
すぐちかくに⑤Sirugue Robert(3 Av. du Monument, 21700 Vosne-Romanée)+33380610064がある。
ここも訪問は要アポだ。
もう少し歩くと、道は二つに分かれる。何回か通っているコースだから嫁さんはそのまま右へ進んだ。コミューン通りである。左側に村役所がある。
右側に⑥Domaine Anne Gros(11 Rue des Communes, 21700 Vosne-Romanée)がある。
https://www.anne-gros.com/
グロ家6代目の方だ。ゲストハウスを用意してくれていて、何年か前にお邪魔したことがある。
Maison d'hôtes la Colombière(11 Rue des Communes, 21700 Vosne-Romanée)+33380610795
ドメーヌをオーナーに案内して泊めさせていただいた。素晴らしい体験だった。

もう少しまっすぐ行くと右側に⑧Domaine Michel GROS(7 Rue des Communes, 21700 Vosne-Romanée)がある。
http://www.domaine-michel-gros.com/
アン・グロさんのゲストハウスに泊まった時、ご紹介いただいて、こちらもお邪魔した。とても素敵な方で、ママは大ファンになって、それ以来「ブルはなんにする?」と僕が云うと、最初の一言は「グロ!」になった。
前を通りながら「お邪魔しないの?」と言った。
「ん。今回はな」
「お邪魔するならお土産持ってきたのに・・」と名残惜しそうだった。
もう少し先の左側に⑨Domaine du Comte Liger-Belair(1 Rue du Château, 21700 Vosne-Romanée)+33380621370かあるが、こちら側からだと裏側しか見えない。シャトー通りからしか見えない。
http://www.liger-belair.fr/
「ガリアの人たちは92 年のローマ皇帝ドミティアヌスの勅令でワインの製造を禁じられていた。しかし結局はザル法で徹底的な取り締まりは出来なかった。これを武人だったプロブス帝が廃止したのは 280 年だ。この時からこの地方の大きく産業として開き始めるんだ。
が、それに目を付けたのがローマ教会だ。彼らが熱心にガロロマンの人々に布教を始めたのもこの頃からだよ。産業ある所に布教ありだ」
「それで、この辺りはシート派の修道院のものになったの?」
「ん。まずサン・マルタンが大きな布教活動を行った。これが大成功して幾つもの修道院がこの地に出来たんだ。その中にシトー派がいた」
「シトー派ってベネディクト派のひとつでしょ?」
「そうだ」
「マコンへ行ったときに寄ったクリュニー修道院 Abbaye de Clunyで話したこと憶えてるわ。ベネディクト派は学究的で修道院を中心に進行を考えていたけれど、シトー派は外へ外へ出て開墾を目指した・・って」
「そうだ。シトー派はクリュニー修道院の金持ちめいた清貧が我慢できなかった人たちのグループだ。堀米庸三氏が『正統と異端』の中でこう書いている。『クリュニーの清貧は修道士の清貧ではあったが、修道院のそれではなかった。それゆえにクリュニーの繁栄は王侯のような富をもたらし,その聖堂とそのなかに営まれる生活は華麗をきわめるものだった』
クリュニー修道院は学究的だったんだ。全員が学者然としていた。だから儀式典礼を荘厳化したり権威付けに執心したんだよ。誰も開墾なんぞという発想はしなかったんだ」
「そうね。あのときもそういってた」
「シート派の人々は、それに大きなNO!を出して、ドンドンと修道院を出て新しい開墾地を求めて広がったんだ。シトー派がこの地に入ったのは1098年だといわれてる。1100 年ころからヴージュ川岸で開墾を始めている。使用したのはピノ・ノワールだ。ピノは気難しいし、変成種がすぐに出来やすい葡萄だから、優良なものを維持するのは猛烈な集中力と努力が必要だ。だからやっぱり修道僧じゃないと守れなかったんだろうな。史料としてその名前が出てくるのは1164年だ。アレクサンドル 3 世の勅書に初めて名前がでてくる。
ちなみに・・シトー派はベルナルド会Bernardinともいう」
「ベルナルド会?初めて聞くわ」
「たくさんの修道院を興し、たくさんの開墾田生み出したシトー派は次第に隆盛を為んだ。その中に痛烈なプロパガンダだったクレルヴォーのベルナルドゥスBernardus Claraevallensisが表れた。シトー派は彼の名前で云われることがある」
「クレルヴォーのベルナルドゥスって・・あの」
「そうだ。ベルナルドゥスは十字軍運動の扇動者だ。彼のプロパガンダから中世の最大殺戮が始まったんだ。でも彼はエルサレムには行かなかった。煽っただけだった」
「ああ、あなたがいつも悪口言う人ね」
「悪口じゃない。事実だ。・・堀米庸三氏も『正統と異端』のなかでこう書いている『修道会そのものの清貧は最も早くすて去られ、シトー派はたちまちクリュニーのあとを追うこととなり、1170年、法王アレクサンダー3世は、シトー修道会が初期の理想を忘却したことについて厳しく叱責しなければならなかった。これはシトー修道会がひたかくしにかくしてきたため、ようやく第二次世界大戦後(1952年)になって明らかにされた事実である』
隆盛の中で清貧を保つのは至難だ。いつも言うが『清く貧しく美しくもなく』だ」
「あぁあ。いつもの悪口になっちゃった」



無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました