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ポップカルチャーとしてのB級グルメ

ついこの間、歩いてたら「ビストロ・バル」ってぇのがあった。びっくりした。ビストロ、フランス語だろ。バル、スペイン語だぜ。
嫁さんに「だったら寿司バルとか、らーめんバル、パブバルとかも有るかもれないなぁ」といったら、事もなげな「あるわよ」と言われた。
「バルって、日本語では洋風居酒屋のことなのよ。」あ~そうですか。
居酒屋も 椅子を替えれば バルとなる
思わず一句浮かんだね。
ははは。まあ本家バルのピンチョスだって、間違いなしのB級グルメだからね。名前や形態に拘るようなもんじゃないんだろうね。
そう思った。

実はバル文化そのものは19世紀から有った。
アルフォンソ12世(1857-1885)が、バルで酒だけを出すことを禁止したため、スペイン全土で、19世紀末から、バルは必ず簡単な料理を出すようなっていた。所謂タパスTapaと云うやつである。
タパスは、当初無料のオマケだったが、各地方とも色々と工夫を凝らしたものを出し始め、次第に有料になっていった。
スペインの夕食は遅い。男たちは仕事帰りにこうしたバルに寄って、酒を飲みながら小腹を満たす。これがスペイン全土で男たちの習慣になって行った。この仕事帰りの一杯を「ポテオPoteo」または「チキテオTxikiteo 」と呼ぶ。このチョイ飲みを進化させたのが、サンセバスチャンの場合、ピンチョスPintxoである。ピンチョというのは「串」のことで、串に刺したオツマミをピンチョスという。

こうしたB級グルメをポップカルチャーとして認識し、注目したのはこの街に住むスターシェフ、カルロス・アルギニャーノ、ペドロ・スビハナ,フアン・マリ・アルサックだった。しかし、なぜ社会的評価も高く、プライスゾーンが高い料理を出している彼らが、地元B級グルメをポップカルチャーとして認めたのか。
ここに僕は大きな時代的な累積を見る。

実は彼らはヌーベル・キュイジーヌNouvelle Cuisineの洗礼をうけた人々だった。ある意味、彼ら自身がトラディショナルな手法から解放された1970年代の数奇者で、まさにポップカルチャーの申し子だったのである。
斬新で新進に富み、あらゆる可能性を受け入れるヌーベル・キュイジーヌの申し子だったからこそ、こうしたスターシェフたちは、ガストロ・バルGastro Barと呼ばれる形態に抵抗無く関われたのではないか?そう思ってしまう。

そしてもうひとつ注目すべきは、こうしたサンセバスチャンのスターシェフの多くが地元出身で代々家業として飲食店をやってきていた人々だということだ。150年前から始まった美食都市化が生んだ「料理人の家系」なのだ。だからこそ地元愛があり、皆で手を組んで土地を有名にしようという団結が必然的に生まれたのである。

1999年、サンセバスチャンで世界初の国際料理学会が開催されたときも、コアパーソンは、こうした地元シェフだった。
2009年、料理学部のある4年制の大学が創立したのも、コアパーソンは地元出身のルイス・イリサールLuis Irizar Zamoraだった。
「共存し、教えあい共に伸びる。」こうした善循環が可能だったのは、長い歴史的な背景が有ったからではないか・・僕はそう考えてしまう。

観光資源として"食"に注目することは簡単だ。しかしそれを具現化するのは至難だ。サンセバスチャンで、それが出来たのは、官民の協働体制が極めて良好に機能したこともあるが、もっとも重要な要素は、この街が避暑地として150年間、美食を売りにしてきたという歴史的な背景だろう・・そしてそこに綺羅星のように有能な料理人が沢山誕生したということ。
僕は街を歩きながら、そう思った。
サンセバスチャンでは、まさにこうした料理人のプライドと動機によって「一燈照隅万燈照国」が具現化されたのだ。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました