見出し画像

葛西城東まぼろし散歩#11/南砂町05

砂村新左衛門の碑は、富賀岡八幡宮の境内入り口の側あった。
祭日だったが参拝者はいない。僕ら夫婦しかいなかった。
「砂村新左衛門は相模国三浦郡久里浜の人だ。いまの神奈川県横須賀市から一族を連れて此処へ来たんだ。」
「三浦半島の人なの?」
「いや、ちがう。彼は摂津国上福島のひとだ。いまの大阪、北区上福島の出身だ。早い時期から諸国を巡っている。農家だが新進の人だったようだ。人望が高かった。子弟を連れて関東に渡ってきたのがいつの頃かはわからない。まずは武蔵国久良岐郡野毛・・いまの神奈川県横浜市あたりに移り住んで野毛新田を開拓した。そして久里浜の内川新田の開拓もしている。この二つで実績を付けたんだろうな。江戸幕府に申し入れて、深川の奥・宝六島の干拓を行ったんだ」
「宝六島?」
「ん。名前はもうない。正保改定の国図に"ホウロク島"とある。中洲だ。荒川・利根川が山地から運んできた砂地で出来た島だったからな。低地だったけど、地面はしっかりしていたに違いない。新左衛門はまずここから開拓を始めたんだ。商いは漁業と畑仕事だ。魚も野菜も採ったものは日本橋に舟で運んで商売した。城北城西からくる野菜に比べて近かったし舟を使って運べたから大量に商いできた。大成功した商いだったんだよ。だから砂村は、あっという間に大きくなったし江戸市民にもその名前は知られたんだ」
「なぜ砂村新左衛門は宝六島に目を付けたの?」
「詳細は分からない。彼より前の状況について書かれたものは何もないんだ。すべては彼が来てからだ。
それより前を探ろうとすれば葛西氏の話になる。」
「葛西氏?」
「葛西氏・葛西清重は、秩父氏の末裔だ。下総国葛西御厨の領主だ。中央は今の葛飾青砥に有った葛西城だ。いまは葛西城址公園になっている。この辺りは葛西氏の所領だった。"葛西御厨田数注文"というのが応永5年(1398)に記録として残っている。房総にある香取神社の造営を、千葉氏と葛西氏で負担したことがあってね、御厨はそのために作られた。"注文"というのは、領地の数量や種類の詳細を書いた報告書だ。ここに"葛西御厨には37の郷ごと田数1233町7段がある"と残っている。そのひとつがホウロク島だ。
実は応永5年って、葛西御厨の支配が葛西氏から関東管領上杉氏へと移ったときだ、このころからこの辺は室町幕府の鎌倉府直轄領となったんだよ。しかし上杉氏も室町幕府も江戸湊の寒村には欠片の興味もなかった。だから何も資料はない・・というわけさ」
「なるほどねぇ・・でも御厨ってあるんでしょ?」
「御厨というのは、普通伊勢神宮の所領のことだ。神社を経営するにあたってその資産管理するところだ。御厨は伊勢神宮のほか加茂社にもあった。だいたいは土地の有力者からの寄進だ。平安の後期からお伊勢さんを中心に全国数百ヵ所にあった。葛西御厨は香取神宮のための御厨だ。」ホウロク島はおそらく漁労として香取神社の賄いを受け持っていたのかもしれないね」
「ふうん・・いろいろ話が横へ横へ広がるのねぇ」
「応永5年(1398)から葛西御厨は後北条氏に取り上げられた。家臣の知行地として小田原衆所領役帳に記載されている。ということは、この葛西御厨期に実はかなり半農半漁として経営的に確立していたのかもしれないな。僕にはそう思える。砂村新左衛門は、まっさらなところから砂村を立ち上げたのではなく、すでに確立していたビジネス形態をさらに充実させたんじゃないかな。いずれにせよ史料は少ない。「新編武蔵風土記稿」と「葛西志」の二つくらいだ。新田としての経過は延宝八年(1680)元禄二年(1689)正徳三年(1713)、寛保年間(1741)の古絵図から見るくらいだな」
この延宝八年の絵図を見ると、海岸線が深く北に湾入し、現在の千田、千石、東陽はまだ葦原だった。旧深川区内は開墾が進んでいたことが判る。砂村・亀戸あたりを除いて、すべて海原として描かれている。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました