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葛西城東まぼろし散歩#09/南砂町03

【南砂町を出て「もと八幡」に向かって歩いた。団地の中の通りを歩いた。ずっと人影はなかった。
「もともとは埋め立て地でしょ?」
「ああ、江戸時代はな。日比谷入江/江戸前島より先の水ったまりが、暫時開墾開発が進んだのは・・江戸の十カ町が出来上がっていく途中、ほぼ半世紀くらいからだ。
その半世紀を経て、江戸城より東(城東)・宮戸川の改良版・墨田川より向こう・・所謂下総地区も開墾に曝されたんだよ」
「・・曝された?」
「ん。町には人が棲むところと、人の糧を作り出す所がいる。だから家康さんの大事業も、開墾開発は江戸を超えて広がっていったんだ。下総は、千葉房総の周辺地区だ。千葉房総を向いて上総・そして下総と並んでいる。いちばん端・江戸に向いた部分が下総だ。葛西は家康さんが来る前から塩田として成立していた。それと江戸を繋ぐ小名木川/道三掘が出来上がれば、その間の地区も・・城東もタダの葦っ原じゃいられなくなったのさ。
隅田川を挟んで、江戸市中に近く、もともと湿原だったからな。水運が縦横に使える。運河・河川に沿って町が作られたのは早かったんだ。深川・本所・亀戸あたりに継いでこの辺が出来上がるには、それほど時間がかかっていない。
砂村が、砂町となったのは大正一〇年(1921)七月一日のことだ。もともとは十三の新田があった。砂村新田/又兵衛新田/荻新田/太郎兵衛新田/中田新田/大塚新田/治兵衛新田/久左衛門新田/八右衛門新田/永代新田/平井新田/八郎右衛門新田/亀高新田である。最も大きいのは砂村新田と八郎右衛門新田だった。・・場所で云うと・・砂村新田は、現在の清砂通りを境として、北砂の一部そして南砂のほとんど全部、それと東砂の一部だ。」
「その砂村の主人公が砂村新左衛門さんなのね。」
「ん。・・もうすぐ富賀岡八幡宮がみえる。富賀岡八幡宮は砂村新左衛門が勧請した八幡宮だ」

「このへんは旧城東区だ。城東区と呼ばれるようになったのは昭和7年(1932)からだ。それまでは東京府南葛飾郡の一部だった。横十間川を境として東京市と行政所管を異にしていたところだ。これを昭和7年10月1日南葛飾郡全域を東京市に編入し、亀戸町/大島町/砂町と合わせて城東区になったんだ。その城東区時代。砂町は区内南端だった。そのまま江戸湊に面していた」
「それが昭和7年まで続いた・・ということ?」
「もちろん、以東の開拓は明示大正に入って進んでいたけどな。それでも半農半漁の文化は残った。砂村新左衛門によって半農半漁の村として出来上がったからね。ご維新以降も、その血筋は綿々と続いたんだ。確かに埋め立ては続いて漁場は去ったれどな、農業は残った。この辺りの畑は、僕の子供のころでもまだ有った。うちの母方の叔父さんがこの辺に住んでてね、子供の時に来た時、となりが大きな畑だったことは覚えているよ」
「それが・・この団地?」
「ん。畑が無くなって、この団地なる縦に長い長屋が出来上がった・・もちろん先はわからんよ。東京もまた人口数が減っているからな。いつまで"コレ"が生活の普通の場として生き残るのか・・」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました