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黒海の記憶#02/ボスボラス海峡を抜けて

ウクライナにある製粉工場だった。そこに設置する50リューベのアルミのタンク(spitter製)を何台か、オデッサのすぐ傍にあるチェルノモルスク港へ持ち込んだ。家内と結婚したばかりのころだから・・40年近く前の話だ。
僕が随伴したのは、相手側に当時まだ正常なFOBを行えるほど与信力がなかったからだ。
50リューベの空のタンクは美しい。そして相当な大きさだ。これを載せた貨物船は地中海からマルマラ海峡へ入りボスボラス海峡を抜けて黒海へ入った。チェルノモルスク港は黒海の北の外れにある。黒海に入ってからも長い旅路だ。
僕は誂えられた船室で、相変わらずMitsubishi製のシーケンサーを弄っていた。今回の話は、ゼロから構築ではなく既存設備の増設と改良だったから、課題としてはかなり難物だった。それもあって船内で独りきりになってシーケンサーと対峙できるなら、それはそれで善しと思って、随伴を請けたのである。
それと黒海だった。
黒海を渡ってみたかった。
理由は詩人オウィディウスの「黒海からの手紙Epistulae ex Ponto」だ。彼はアウグストゥス帝の逆鱗に触れ、黒海に面した小さな村に幽閉された。詩人はこの海を見ながら悲嘆の中に死んだ。
その彼が見つめた海を僕は辿ってみたかったんだ。

この内海を「黒い海」と呼んだのは誰だかわからない。前述したようにこの海は6000年前にはなかった。

ある日、地中海との間に有った陸橋が破れ、海が怒涛のように流れ込んだために一年余りでできた内海である。人々は既に言葉を持ち、農業を営み牧畜を始めていた。実はコーカサス地区はその先駆だった処だ。それがたった一年で海中に沈んだ。この大惨事は「大洪水時代」として深く人々の記憶に刻まれている。
人々が此処を「黒い海」と呼んだのは、その衝撃的な天変地異のためかもしれない。

文字として「黒海」が初めて記せられるのは古代ギリシャである。彼らはポントス・アクセイノスPontos Axeinos「暗い海」と書いている。もちろんそれは同地の人々の呼称をそのままギリシャ語にしたものだろう。

たしかに僕が航海中に見た黒海は、エーゲの海より黒かった。そのことを仲良くなった二等航海士に聞くと彼はこともなげに言った。「深いんですよ。この海は。だから海面がより暗く見えるんです。」
なるほど・・エーゲ海を抜けて入り込んだとき、その暗さが何よりも際立って見えたから、その凄惨な天災を知らなかったとしても此処を「Pontos Axeinos暗い海」と呼んだのかもしれない。そう思った。
ところがギリシャは、黒海内にあった幾つかの地域と交易を始めると、この海を「ポントス・エウクシヌスPontos Euxinus「客あしらいの上手な海」と呼ぶようになっている。その言い回しには、交易の民ギリシャ人の匂いが際立っていて面白い。
ところがビザンツ時代になると黒海は、ただ「海Pontos」と呼ぶようになる。
これは僕らが隅田川を「大川」と呼ぶのと同じだろう。わざわざ固有名詞をつけるまでもない、ただそこに在り、海と呼ぶだけで従足する存在だったから・・ちがいない。
モスレムの人々はブントゥスbahr Butusと呼んでいる。「海の海」という意味だ。

交易の時代に入ると、材木等と共に・・実は多くの奴隷狩りがこのあたりで行われた。それもあって奴隷はslave(スラブ人)と呼ばれたのだ。
こうした交易商人たちは、この海を「豊穣の海Mare Maius」とか「偉大なる海Mare Maggiore」と呼んだ。まったく勝手な言い分だ。あるいは黒海内にあった交易地に因んだ名前で呼んだ。たとえば「スキタイ人の海」「サルマタイ人の海」「ハザール人の海」「ルーシ人の海」「ブルガール人の海」「グルジア人の海」等である。ちなみにモスレムの民は、地中海を「ローマ人の海」と呼んでいる。おそらくXXX人の海というのは、通称として船乗りたちの間では一般的だったのかもしれない。

さて。欧州である。西ヨーロッパに残されている文献の中に「黒海」が頻出するようになるのは14世紀ころからである。パンタスPontusあるいはヨクザインEuxine等と記されている。シェークスピアはオセロの中のセリフに黒海を登場させている。彼はポンティアック海と呼んだ。怒り狂ったオセロのセリフの中にその名前が登場する。シェークスピアは、黒海の「黒」という言葉に強い情念と怒りを込めて使用しているのだ。一般的な欧州人が「黒」をあまり好まないのは・・アジア人との大きな違い・・黒から連想されるものが、シェークスピアと同じものだからかもしれない。

ところで・・現代トルコ語では、逆に地中海は「Ak Denix白い海」と呼ばれる。面白いね。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました