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ボルドーれきし ものがたり/3-9 “ケルトとカエサル/強者が説く正邪"

カエサルの北征以降、ガリアの地は"ローマ化"に拍車がかかり、反ローマ的な動きは局地的なものになっていく。じっくりとガリアの地(欧州)にパクスロマーナ(ローマによる平和)が浸透していく。
・・しかし僕は考えてしまう。カエサルのガリア侵攻が無ければ・・パクス・ロマーナは、この地に無かったのか?カエサルのガリア侵攻にどんな意味も価値が有ったのだろうか。どう取り繕っても、カエサルの北征は私的蓄財が主目的だった。「野蛮な指導者によって苦役している人々の解放」ではなかった。
ガリア側に、ウェリキンゲトリクスVercingétorixという統一指導者が現れるのは、カエサル軍の絶え間ない略奪に対して自己防衛するためだった。ガリア同盟は、ローマとの並立するためのガリア部族統合ではない。あくまでもカエサルの略奪に対する対抗策だったのだ。だからこそガリアは、ローマ軍の補給線を断つために、自己破滅的な焦土作戦を取った。
アレシアにおける(現在のディジョンに近い地域)全面戦争を見るたびに、僕はこの戦いの後ろにあるカエサルが云う「正義」のキナ臭さを感じてしまう。 強者が「美味しそうな正義」を振り撒く時、その後ろにあるものを僕らは見つめなければならない。歴史がそれを教えてくれる。

タキトゥスは、彼が書いたもう一つの歴史書「アグリコラ」でこう言う。 「彼ら(ローマ人)は、破壊と殺裁と掠奪を"支配"と呼び、荒涼たる世界を作りあげたとき、これを"平和"と言う。」
これは、ブリタニアの指導者カルガクスが、ローマの将軍アグリコラと決戦を交えるとき、部下へ演説した時の言葉だ。強者が弱者を捻じ伏せる時、強者の振り撒く"正義"に立ち向かう人々の言葉は、いつの世も変わらない。
強者が正邪を説く時。僕らが喚起すべきことが有る。それは「なぜ彼がわざわざそれを言うのか?何が彼にそれを言わしめているのか?」である。

極端な傍例を挙げたい。
核兵器である。核兵器の廃絶を先進諸国は叫ぶ。それに従わない国は"邪"であるという。しかしそれを叫ぶ先進国は、すでに核兵器に匹敵する大量殺戮兵器を保持している。それも攻撃後すぐに侵攻できる"地を汚さない"殺人兵器をだ。しかしこの手の大量殺人兵器は極めて高価で、先進数カ国しか持てない。一方、核兵器は開発/製造が安価だ。北朝鮮程度の資金力でも製造できてしまう。云うなれば"貧者でも持てる決定的な最終兵器"が核なのだ。それを保持することで・・云いかえれば「体内に猛毒を持つことで」弱者が強者から捕食されないようになる。北朝鮮のロジックはそれだ。それが正しいかどうかは置く。タキトゥスの云う通り「正邪は立場によって反転する」ものだから。恰も神の視線から正悪について弄するのは唇が寒いものだ。

つまり僕らが史家的視線として事象を把握しようとするならば・・新しく開発した自分たちしか保持できない高価な大量殺戮兵器を手にしながら、旧式の貧者でも開発し保持できる核兵器の廃絶を叫ぶ・・その腹のうちについて「なぜ彼がわざわざそれを言うのか?何が彼にそれを言わしめているのか?」を考える必要があると僕は思うのだ。 「美味しそうな正義」を強者が振り撒く時、正邪を強者が説く時、僕らが持つべき視線は之だ。

8年間のガリア北征・・カエサルの野望のために死んだ人々は、ガリア側ローマ側を合わせれば数百万だった。膨大な富がガリア人から搾取され、ローマもカエサル個人も潤った。しかし、カエサル自身は独裁者(帝政)の道半ばで斃れた。ローマの帝政は彼以外の人間によって為されていくのだ。歴史の中では良くあるアイロニーだ。
人はよく準備された謀略の許ではいとも簡単に殺されてしまう。如何に栄華を誇ろうと、人は脆く弱いものだ。歴史は、その脆さを呑みこんで織りなすタペストリーだ。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました