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小説特殊慰安施設協会#16/横浜税関ビルGHQ本部

5日前の8月30日。日本は連合軍の進駐を受け入れていた。
その日、未明。アメリカ第8軍が横浜湾と横須賀港に進駐。明け方には無数の米駆逐艦が両湾内を埋め尽くしていた。上陸は夜明け直前に始まった。横須賀は米海兵隊が上陸用舟艇で上陸。日本は確かにポツダム宣言を受諾し、敗戦を受け入れていたが、武装解除は未だ行われていない。きわめて緊張した上陸だった。横浜港はフィリピンから来た第8軍11軍隊第一騎兵師団「ファストチーム」が大桟橋に接岸し、上陸した。そして膨大な兵站の荷降ろしが各所で始まった。

横浜大桟橋に係留された輸送艦から降りてきた太平洋艦隊司令本部要員を迎えたのは、内務省によって組成された終戦連絡中央局の担当者たちだった。その先導で彼らが接収先の横浜税関ビルに収まったころ、ようやく朝日が昇り切った。同時にさまざまな荷物が持ち込まれていく。

連合軍司令本部は、横浜税関ビルを接収すると、すぐに動き始めた。同日午後にはマッカーサー総司令官が、神風特攻隊の拠点だった厚木飛行場に降り立つ。そして、その足で横浜に入る予定だ。連合軍指令本部はそれまでに完全稼働状態にしなければならない。同時に、横須賀港・横浜港からの上陸、厚木基地からの上陸状況を弛まなく把握していなければならない。そして武装解除されていない日本兵によるゲリラを警戒しなければならない。本部を組み立てると共に、猛烈な仕事量を彼らはこなした。

 厚木飛行場は、マッカーサー上陸の前に、沖縄の嘉手納基地から先ず第7航空軍が米陸軍航空輸送部隊。総勢約150機が早朝に到着、次々に兵站を下すと共に厚木基地を平定した。

マッカーサーの到着は午後2時5分。迎えたのは米第8軍司令官アイケルバーカー中将だった。このときマッカーサーは『ハロー、ボブ。これで終わったよ。』と言った。
マッカーサーはそのまま、随行した幕僚と共に横浜のホテル・ニューグランドへ移動した。

この日、埠頭保税倉庫が米軍港湾司令部に。横浜税関ビルが連合軍総司令本部GHQに。日本郵船横浜支店ビルがGHQの各部用に。山下公園は米軍幕舎用に。公園内ニューグランドホテルは将校用宿舎に。そして開港記念会館が米軍女子将校用宿舎として、次々に接収されていった。まず横浜港から、日本は着実に連合軍の支配化へ入って行ったのだ。

9月3日・月曜日。林穣と宮沢理事長、高乗警視庁保安課長と内務省の役人を乗せた公用車は第一国道から市内に入り、15号線を通って横浜港へ向かっていた。
この日の朝刊は、9月2日のミズリー号での降伏文書調印のニュースが一面記事だった。その新聞を高乗課長が手にしていた。
車内では林穣は終始寡黙だった。時折、資料を出しては英語で独り言をもらしていた。宮沢は高乗保安課長へ二日後に開店する福生の慰安所の話を高乗課長にしていた。その話を遮るように、高乗課長が宮沢理事長の胸を新聞で叩いた。
「しかしこれは不味いよ。」と言った。
宮沢理事長は新聞を手にしたが、何が不味いのかわからなかった。
「日本がアメちゃんに負けたという新聞記事の下に、おたくの協会が娼妓募集の広告を出しとるよ。」
宮沢理事長は息を飲んだ。今日の新聞に募集記事が出ることは、確かに聞いていたが・・
「まあ、意図的でないことは分かっとるよ。しかしこの新聞は残るよ。ずっとな。そして気が付く人は気が付く。日本が敗北を認めた日の新聞に、よりにもよって米兵相手の売春宿が女の募集をしてる、とな。」
宮沢理事長は黙ったまま俯いた。林譲は我関せずとばかり、資料を読んでいた。

横浜港へ車が近づくと、街を歩いているのは武装した米兵ばかりになった。隊列を組んで行く者も三々五々と歩く者も、全員が武装していた。
「・・それにしても。始まったんだな」窓の外に視線を移した高乗課長がボソリと言った。
彼らが横浜税関ビルにむかっているとき、先日ミズリー号艦上で降伏文書にサインした重光葵外相がマッカーサーと会うためにニューグランドを訪ねている。この日は、連合軍を核として日本が大きく蠕動し始めた日だった。

林譲らが向かっている横浜税関ビルに置かれた連合軍司令本部にも、朝から内務省・外務省などの様々な部署から責任者が訪ねて来ていた。連合軍からの命令通達は、連合軍が用意した通訳担当の兵士を間に入れて行われていたが、その通訳者の数は少なく、順番を待つ長い列ができていた。日本側に英語を話せる者があまりにも少なかった。

林穣らは通訳者無用の旨を係りの兵士に伝えた。案内されたのは防疫担当の部署だった。担当者は高圧的な態度だった。しかし林穣が滔々と事業説明を始めると、面食らって説明を中断させた。そしてすぐに、他の部署からも数名の担当者を呼び寄せた。林穣は臆することなく、堂々と彼らにR.A.A.について語った。

実はこのとき、はじめて林譲はR.A.A.という名称を使った。Recreation and Amusement Associationである。
我々が提供しようとしているのは、リクリエーションとアミューズメントである。慰安施設はその中の一つでしかない。しかるにあなたの所の兵隊がルールを守らず、我々は非常に困惑している。とまで林譲は言った。
連合軍の反応は素早かった。協会のすべての施設に翌日からMPの詰所が出来た。
連合軍司令本部からの帰路。宮沢理事長は意気揚々としていた。比して林譲は無口で下を向いたままだった。目の前にそびえる巨大な壁に、今日初めて触れたからだ。彼は内心怯えていた。
「ところで・・」高乗課長が話し始めた。「君らが事業説明をしているときに、我々にも話が有った。」
林譲と宮沢理事長が高乗課長を見た。
「9月8日に、連合軍がいよいよ東京に大挙してはいるそうだ。その連合軍の一部が第一京浜を通る。そして大森海岸で小休止するそうだ。その際に、道路沿いでお宅の女子特別挺身隊から兵隊に飲み物と軽食を出してもらいたい。」高乗課長が言った。

このアイデアを出したのは、おそらく終戦連絡局だ。同乗していながら終始無口な男から・・だろう。警視庁保安課にそんなことを決める権限がある訳がない。林穣は、瞬時にそう思った。たしかに女たちが連合軍兵士へ、にこやかに飲み物を振舞えば、敵対する意思がないことは演出される。自国の女たちを征服者に供することは、古来から続く恭順の証だからな・・林穣は思った。
「しかし、そんな大事な役を仰せつかっても、彼女たちには装うモノがありません。家を焼き出され、家族を失って、着のみ着のままで、ウチへ飛び込んだ来た人たちばかりです。お持て成し役をさせていただくなら、そのための着るモノも、靴も飾り物も必要です。」林穣は冷静にそう言った。
「わかった。」高乗保安部長は小さく頷いた。

この朝、山崎が出社すると、千鶴子は林穣からの伝言と原稿を手渡した。
山崎はそのまますぐに慰安部担当者の席に向かった。そして幾つか言葉を交わすと、千鶴子を手招きした。
「慰安部の太田だ。」山崎が千鶴子に紹介した。
「広告スペースは毎日新聞に取ってる。」挨拶しながら太田が言った。「まだ広告文は考えてない。」
 太田は貸座敷組合の事務局にいた男だった。小柄だが、一本筋の通った男だった。
「キャバレー部の方は同日の東京新聞に出そう。」山崎が言った。「それで。そっちの方は林課長のものをそのまま使って、毎日の方は我々三人で考えるというのはどうだ?林部長が神経質になってるから、なるべく文面が重複しないように、相談しながら出広しよう。」
「判った。」
30分ほどの打ち合わせで文面が決まった。
「しかしどうやって慰安部に応募してきた女性とキャバレー部にきた女性を仕分する?」山崎が言った。
「一度全部一階の受付で慰安部が受けて、キャバレー部に応募してきたダンサーはそのまま二階に回ってもらうようにしたらどうだろうね?それでキャバレー部は自分たちで面接して可否を決めるというのは?」太田が言った。
「よしそれでいこう。」

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました