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行きあたりばったりのヴェニス04/ホテル・ダニエリ02


ホテル・ダニエリは三つの年代の屋敷が横に繋がってホテルとして利用されている。
中央が1300年代に第42代総督エンリコ・ダンドロによって建てられたものだ。ここが現在はホテルエントランスとして使用されており、チェックイン・アウトカウンターとコンシェルジェサービス、ロビーがある。ロビーの傍にバーが併設されているので、古い博物館級の家具に腰掛けながらコーヒーも楽しめる。こいつが中々よろしい。バーカウンターも良い。ピアノが入っていて、午後からはこれがBGMに使用されていた。
as time goes byなんぞ聞きながら、この中世の豪邸を中から鑑賞できるなんて剛毅なもんだ。

さて。その館を作った第42代総督エンリコ・ダンドロだが、彼がドージェ(総督)に選出されたのは1192年。すでにかなり高齢で、そのうえ盲目だったという。しかし人望は絶大で、行動力もあり就任後はヴェネツィアの通貨制度と法制度を積極的に改革したことで知られている。目的は、ガリアの地(欧州内部)に台頭してきたフランク王国/ブリテンそしてもっと北方の国々との結びつきを強化するためだった。
当時、ヴェネチアとビザンティン帝国は利害の衝突が激しく、特に1171年、ヴェネチアの商人たちがコンスタンティノープルから締め出されことで、二国間は険悪な状況に陥っていた。その交渉のため、エンリコ・ダンドロ自身がビザンティン帝コムネノスを訪ねているのだが、コムネスの態度は尊大で、結果は思わしくなかった。それでもダンドロは粘り腰の交渉を続けたが、同時に新しい商圏を求めて、より広範囲に他国とも様々な通商条約を進めている。
実は、彼がドージェに選出する前からフランク王国は時折痙攣を起こしたように遠いサラセン王国を襲うようになっていた。十字軍である。 ヴェネチァにとって、十字軍を支援することは猛烈に儲かる商売だった。その商売が、ダンドロが為した法整備と通貨制度のおかげで、より促進したのだ。
そして第4次十字軍が起こる。1202年である。

・・この十字軍は、最初から教会の利害が絡みすぎており無理があった。そのため参加する諸侯も資金も当初の目的の1/3も集まらなかった。主催者たちは「戦うぞ!」と気勢を上げただけで、ヴェニスの商人たちから前借りした資金の返済もままならぬ状態に陥ってしまった。そこに食いついたのがエンリコ・ダンドロだ。彼は、キリスト教の錦の御旗の許、採算は度外視!というお題目で、この十字軍を十全に援助した。そして進軍は決行されたのである。しかし・・攻撃したのはエルサレムではない。当時ヴェネチアにとって目の上のタンコブだったコンスタンティノープルだったのだ。
寝耳に水の闇討ちである。コンスタンティノープルは、ひとたまりもなくヴェネチアの手に落ちてしまった。
ダンドロも老体に鞭打って、この戦いの先陣に立った。しかし戦勝後まもなくダンドロは病に斃れる。その遺体は彼の手によって落ちたコンスタンティノープルのハギア・ソフィア聖堂に埋葬された。

ホテル・ダニエリは、その第42代総督エンリコ・ダンドロが最も精力的に活動した時期に建てられ、彼が暮らした館である。 当時、サンマルコ広場の前の桟橋は、この島の商業の中心地だった。巨大な商船が、巨大なガレー船が所狭しと並び、昼夜を問わず様々な交易物が乗り降りした港だったのだ。その中央にダンドロは自らの館を建てた。
多くの史家は彼を「ヴェネツィア植民地帝国の始祖」と呼ぶ。
その男が窓に見た景色を、僕らは同じ館の窓に立って幻視する。 なんと・・凄いことだろうか。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました