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葛西城東まぼろし散歩#30/市川荷風式#06

荷風の死亡が医師から警察へ届けられたとき、検視に紛れて荷風の遺体を撮ったものがいた。この写真を毎日新聞が使用した。昭和34年5月1日版である。・・その写真は物議を投げかけた。


川端康成は『遠く仰いで来た大詩人・中央公論昭和34年7月号』でこう書いている。
「四月三十日のある夕刊に、荷風氏の死の部屋の乱雑貧陋の写真をながめていると、そのなかにうつぶせの死骸もあるのにやがて気づいて、私はぎょっとした。言いようのない思いに打たれた。しかし、このようなありさまの死骸の写真まで新聞紙にかかげるのは、人間を傷つけること、ひど過ぎる。週刊グラフの写真は新聞より大きく明らかであった。この写真によって逆に荷風氏が世を冷笑しているとは無理にも感じ取れなかった。哀愁の極まりない写真であった。この写真の荷風氏はなんの抵抗も拒否も逃背もの力を持っていない。生きている人間ではなく、死骸であって、もはや人間というものではないかもしれないと思うと、私はこの写真の印象からややのがれることができた」
僕がこの写真を見たのは『毎日グラフ』だった。
愛用のこうもり傘が右に何かに掛けられて傾いていた。前にいつも持って歩いていたバッグが有り、火鉢の無効に黒い影が有った。その後ろに荷風が仰向けに倒れていた。首から頭に何か撒いているのはマフラーかもしれない。
口のあたりの畳が黒く濡れている・・



この写真を載せることに弔意があるのか!僕は憤った。
しかし見つめれば見つめるほど、僕は憤りではなく強い魂の尊厳を感じた。荷風から最後の教えを文字ではなく映像で得たような気持ちを受けた。
いま僕は敢えてその写真を此処に載せたい。
荷風の最後の姿に、是非彼の生きざまを強く心揺さぶられて頂きたいからだ。
・・確かに荷風は、深夜独りのときに喀血して逝った。誰にも看取られていない。これは孤独死と括られる。そこに壮絶な老人の孤高を賛美するのはおかしい。
彼は孤独ではなかった。彼には寄り添ってくれる友がいた。
川本三郎は、彼の『老いの荷風・白水社』でこう書く。
「荷風の死は、これまで孤独死と寂しく語られることが多いが、福田とよや小林修のような無名の庶民に見守られていたのだから幸せではなかったのか」僕もそう思う。
市井に生きることで荷風は普通の「人の交わり」を得たのだ。これほどの幸甚はない。
ほぼ毎日のように訪ねてくれた家政婦の福田とよさんは、荷風に「いつ死ぬか分からぬから、毎朝必ず見に来てくれ、死骸がくさったりするのはいやだから」と頼んでいた。福田さんはその通りにした。そして若い崇拝者だった小林青年がいた。彼から荷風は暖かい思いやりと尊敬を受けている。荷風は孤独ではなかったし、壮絶な孤高にいたわけではなかった。
福田さんは荷風に「ふだんから派手なことが大いきらいな自分が死んだら骨を飛行機からまいてくれればそれでいい…といわれていた」そうだ。
しかし、この間まで付き合いが途切れていた人々が故人の遺志を無視して葬式を仕掛けた。相磯凌霜、嶋中鵬二、毎日新聞の小山勝治などが世話役となり、5月1日に通夜、翌2日の午後1時から告別式が同自宅で行われている。告別式には佐藤春夫/堀口大学め久保田万太郎などが参列すると共に近在の人々も焼香した。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました