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堀留日本橋まぼろし散歩#25/安産祈願の水天宮で化け猫話#01

水天宮の本宮は、北九州市久留米市京隈瀬下町にある。
本宮は鎌倉時代/建久初年に創建されたといわれている。平家一門の菩提を弔った小さな祠だったという。
興したのは按察使局伊勢(あぜちのつぼねいせ)。平時子/建春門院/建礼門院に仕えた人だ。壇ノ浦の戦い/寿永4年(1185年)で源氏に敗れた時、平時子と共に入水自殺を図ったが叶わず捕縛され、流浪し尼となり千歳川の畔/鷺野ヶ原に住むようになった時、平家一門の菩提を弔うために祠を興したのだという。村人には尼御前と呼ばれてた。そのため、彼女の祠は尼御前神社と云われるようになり、これが水天宮の由来となった。
往時、筑後川は荒ぶる川で、人々は度重なる氾濫に苦しめられていた。その畔に端然と立つ尼御前神社は、次第に水難/厄除け/五穀豊穣の神として信仰を集めるようになった。その尼御前を中納言平友知盛の孫である平右忠が訪ねた。そして彼女を養うと共に後継者となった。これが現代まで続いている社家の真木氏の祖先である。

水天宮は久留米藩主から篤く尊崇された。その久留米藩の屋敷が、江戸では三田赤羽(西久保)に有った。藩邸内敷の西北隅、中ノ橋寄りの所へ祭神の分霊を勧請したのは文政(1818)元年。第九代有馬頼徳公である。毎月5日に限りこれを人々に開放、一般参詣を許したという。これが江戸における水天宮信仰の始まりとなった。
そして明治の御代。久留米藩屋敷は有馬邸として赤坂に移されたが、明治五年に今の日本橋蠣殻町へ移宅している。有馬家は明治11年より一般参拝が出来る神社とした。

「三田赤羽にあった久留米藩江戸上屋敷に祀られてた水天宮は『情け有馬の水天宮』といわれてた」
「江戸時代は、此処に有ったんじゃないの」
「ん。此処に移ったのは明治になってからだ」
「あ~だから、とても近代的なお社なのね」
「そうも知れなん。引き摺るものなく思いのまま創建できたのかもしれないな」
「なるほどねぇ。子供たちの安産を願ってお参りしたときに、そう思ったわ」
「ああ、まだ改修される前のお社だったな。あのころより、もっとモダンな造りになってるな」
嫁さんと二人、境内を歩きながら35年前の話をした。
「いつもあなたはお母さんと並んで歩いてて、私は後から付いて行ってたわ。安産のお願いに来た時もそうだったわ。よく憶えている。」
「ん~そうだったかなぁ、そんなつもりはなかったが」
「そんなつもりはなかったかもしれないけど・・いつもそうだったわ。私はいつも後から付いて歩いてたわ」
あらあらあら・・旗色の悪い話になっちゃったんで、急いで話を切り替えた。

「三田赤羽にあった高さ三丈という火の見櫓が有ったんだ。『湯も水も火の見も有馬の名が高し』という戯れ言葉があった。久留米藩江戸上屋敷は増上寺が近かったからな。幕府から『火の御番』を賜っていた。それで9mもあるという火の見櫓があったんだよ。
日本三大猫騒動の『有馬の猫騒動』じゃ、その火の見櫓に上って化け猫を小野川という相撲取りが退治するってぇ話になってる」
「ふうん・・日本三大猫騒ねぇ」とあまり乗ってこない。
「肥前鍋島/岡崎/久留米有馬の三大化け猫さ。歌舞伎の演目や浮世絵としちゃあ有名だ。他にも阿波の化け猫ってぇのもあるけどな。江戸の庶民は化け猫がお好きだった。特に、どうやらホントに有ったらしい江戸屋敷内での女たちの愛憎が絡んだ事件に、化け猫を乗っけた話は、お気に入りだったようだ。その化け猫が火の見櫓に潜んでいたという話だ。
歌舞伎の方じゃ『有松染相撲浴衣』だな。『怪異有馬猫』と改題して竹三郎さんが演ってる。映画の方じゃ新興キネマが戦前に『有馬猫』というのを作ってる。出演者がほとんど女性ばかりというスゲー映画だよ。戦後(1953年)大映が『怪猫有馬御殿』というタイトルで、これをリメイクしてる。特撮!!を売り物にした怪作だ。amazonで観られるから、帰ったら観るか?」
「観ない」
「あ・そ」


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました