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ボルドーれきし ものがたり/2-4 "パクス・ロマーナ"

ブルディーガラの戦いは、このジロンド/ガロンヌ川の畔に作られた交易都市ボルドー/ブルディーガラの有用性を強くローマへ印象付けしました。ブリテン島/ブルターニュ地方との錫区交易地点として、高機能に活動しており、属州の外にあるとはいえ此処を"租税回避地区"にしておくのは宜しくない。そう考えたのです。

以降ブルディーガラは、ビトウリグム・ヴィービスコルム共同体civitas Bitungum Vibiscorum(ローマに納税義務をもつ共同体)のひとつに繰りこまれ、中央から送られた/あるいは任命された執政官praetorプラエトルによって管理される都市になりました。
https://archive.org/stream/MN40043ucmf_3/MN40043ucmf_3_djvu.txt

そしてカエサル侵攻以降は、初代皇帝アウグストゥスの皇帝属州ガリア・アキタニアGallia Aquitaniaの一部と見做され、州都・メディオラヌム・サントヌムMediolanum Santonum(現在のサント)の管理下に置かれるようになります。当時、サントヌムは遥か東方のレグドゥーヌムLugdunum(現在のリヨン)とローマ街道で繋がっており、ローマのガリア管理における重要な都市でした。一方、商人の都合から"自然発生した都市ブルディーガラ"は、地政的な意義は希薄です。しかし儲かっているなら税を取りたい。それが同地のプラエトルが皇帝属州の管理下に置かれた理由でした。

これによって"租税回避地区"としてのメリットは雲散した。しかしブルディーガラの商人/ガリア人は此れを粛々と受け入れ、さらなる発展を望んだのです。なぜでしょうか?それは"ブルディーガラの戦い"でのガリア人/キンブリ族の態度が、結局は略奪と虐殺に終始するもので、ローマ的な互恵・共存共栄とは遥かに懸離れたものだったからでした。

ガリア人にとって"移動"は、家族と家財を持って行うものでした。そのため移動時は、住んでいたところを必ず全て焼き払った。これは移動を伴う戦争"侵略"の場合も同じで、彼らには兵士だけが戦地に赴いて戦うと云う習慣はなかった。したがって侵略戦争のときでも、家族と家財のための土地確保と食糧確保が必須でした。そのため戦いによって手に入れた地域では、その地で暮していた人々/敗者を、非戦闘員も含めて、殲滅あるいは奴隷化を徹底的に行ったのです。ガリア人にとって、共存とは力の拮抗する相手との間に生まれる動的平衡でしかなかったのです。

ブルディーガラの商人たちは、これを忌んだ。商いは、力の強弱に隔てなく共存と共栄の許に成り立ち、繁盛し互いに大きくなることを目指すものだからです。なので彼らは交易先としてのガリア人を歓迎しましたが、その支配は歓迎しませんでした。

グローバリズムを"中央による搾取"というのは簡単ですが、これが互恵である限り戦争は起きません。商人は・・武器商人でない限り戦争を嫌悪します。パクス・ロマーナを容認するものです。 ブルディーガラは、まさにこの「パクス・ロマーナ」を象徴する都市そのものだったのです。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました