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小説特殊慰安施設協会#22/『ハイ! ムース♪』『ハイ! ムース♪』

その日もワッツ中尉は、横浜から独りでジープに乗ってR.A.A.協会の事務所へ来ていた。彼はほとんど毎日一度は事務所に来ていた。そして必ず千鶴子の事務机の隣の席に座った。そのため、そこが必然的に彼の占有席になり、社員はそこを「ワッツ席」と呼ぶようになった。林穣は、はじめ彼が訪ねてくると、どこにいても必ず事務所に戻ったが、千鶴子を通して交渉する方が簡単に話が進むと判るや、ワッツ席の上に書類を置くだけになった。

しかし、ワッツ中尉が協会を訪ねてくる時間は決まっているわけではない。しかもジープで協会の前に乗り付けて二階に上がってきても、千鶴子がいないときは不快そうな顔をしてそのまま帰ってしまう。そうなると仕事に大きく支障が出るので、千鶴子は彼がやってくるまで、必ず事務所にいなくてはならなくなってしまった。

「ハイ! マンディ。今日の俺たちの仕事は何だい?」ワッツ中尉は、千鶴子がいると、ご機嫌で、そう言いながら「ワッツ席」に座る。千鶴子は、そんなワッツ中尉に、笑みを絶やさないまま要望書を渡す。
『こんにちは。アンディ。書類をまとめておいたわ。』千鶴子は、毎日そういってワッツ中尉に彼女がタイプした書類を渡した。
『OK.OK。君のためなら僕は全力を尽くすよ。』ワッツ中尉は必ずそう言った。
他の社員たちは、その様子を横目で見るだけだった。要望が通りそうもないとき、千鶴子の思わず見せる哀しそうな顔が、どんな説明よりもワッツ中尉をR.A.A.協会の味方にする最大の武器だと、みんなが気が付いていた。

千鶴子は、慰安部に関わる件については、必ずヘレンを同席させた。そして宮沢理事長と高松部長への報告にも、必ず彼女を同席させた。少しずつGHQに関わる慰安部の窓口をヘレンに移譲するつもりだったのだ。しかし英語は流暢だが、書くのも読むのも不得意なヘレンには、それは相当の重荷だった。それでも負けず嫌いのヘレンは、何も言わずに千鶴子から回された仕事を請けた。ヘレンには、千鶴子より私のほうが英語は上手い、という自負があったのだ。

ワッツ中尉が来て、二階に上がっていくのが見えると、ヘレンはすぐにトイレへ飛び込んで化粧を直した。身繕いは直しようが無かった。毎日、同じモンペ姿だったからだ。千鶴子は違った。毎日、小美世が用意するものを着て出社していたので、いつも小奇麗に色々な工夫がされていた。でも、あたしのほうが今に気に入られる。あたしのほうが男扱いが上手だから。ヘレンはそう思っていた。

慰安部の案件は必ず毎日ひとつは出る。案件が出ると、千鶴子は中座して、一階のヘレンに声をかけた。ヘレンは溢れるばかりの笑みで、ワッツ中尉に接した。最初はヘキヘキした風のワッツ中尉だったが、いつの間にか慣れてヘレンが来ると、砕けた冗談をスラング混じりで飛ばすようになった。ヘレンは確信していた。あたしが読み書きができないことはハンディにならない。アンディに甘える武器になる。そしてそのとおり、それはアンディに立ち入る大きな武器になった。ヘレンは、可愛い、でも少しオツムの弱い女を見事に演じきった。

 それがR.A.A. にとってどういうことか。見事に透かして見ていたのが高松慰安部部長だった。高松は、横浜税関にあったGHQを訪ねる時は、林穣ではなくヘレンを伴って出かけることにした。その指示を高松から受けとき、ヘレンは戸惑って言った。
「でも、あたし。モンペくらいしか着るものないです。萬田さんみたいに奇麗にできません。」高松はすぐに、ヘレンが間借りしていた家へ、調達部から着るものと身装品を届けさせた。
 高松がヘレンに望んだのは、GHQでの通訳だけではない。R.A.A. の慰安施設にいる、英語の話せる、少しオツムの弱い。従順で優しい女たちのシンボルになることだ。だから通訳の時に、彼女が難しい単語が読めないこと、発音できないことは、何の障害にもならなかった。これは見事に成功した。ヘレンはGHQで「ムース」と呼ばれた。娘を略してムース。ムースはヘラ鹿のことである。ヘラ鹿はバカの代名詞だ。撃たれるまで、ボーッと立っているだけのバカ。米兵たちは、日本の愛想を振りまく女性たちをそう呼んだ。
『ハイ! ムース♪』『ハイ! ムース♪』
GHQ本部へ高松とヘレンが出かけると、廊下で皆がヘレンに声をかけた。誰も高松のことは憶えようとしなかったが、ヘレンのことは憶えた。ヘレンは、声をかけてくれた兵士全員に満面の笑みを浮かべて、手を上げて応えた。その横で高松は、ほくそ笑んだ。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました