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葛西城東まぼろし散歩#27/市川荷風式#03


「すみだ川」の英訳を手がけたドナルド・キーンが、市川の荷風を訪ねている。
彼の著作「思い出の作家たち」から引用しよう。
「永井荷風とは一度だけ会ったが、それも一時間足らずだった。それに、その時、私はひどい二日酔いで、何か意味の通ったことを言うことはほとんど不可能だった。私は彼がどんなに気むずかしい人か前もって知らされていた。つまり東京以外で生まれた人には話しかけないとか、門下の者にしか分からない、一種の暗号を使うとか、外国人を見ただけで姿をかくしてしまうこともあるとかいうたぐいである。で、車が東京を出て千葉に向かう途中、私は荷風先生に言うため、面白い意見を考えようとしたが、あまり頭がぼんやりしていたので、大した成果はなかった。
私は少し前に『すみだ川』の翻訳を出していた。その前年、これでかなりの間日本ともお別れだと言う旅の飛行機の中で、文庫本で『すみだ川』を読み、その美しさに心を奪われ、涙が出て来た。その時の体験から翻訳へと駆られたのだった。頭さえすっきりしていたら、荷風先生の文体が、いかに、日本で最も私を楽しませてくれたものの精髄と感じられたかを言ってみせることができるのだがと、その時私は思った。
自動車が止まって、私たちは表札のない小さな家へと細い小道を歩いて行った。私の友人が前を歩いた。私たちは家に上がって荷風先生を待っていた。日本人はよく、きたない所ですがと自分の家をけなして言うが、荷風先生の家はこうした表現が適切でもあろうかと私が感じた最初の家だった。しばらくして荷風先生が現れた。着物をだらしなく着、前歯のかけたその顔は非常にみにくく見えた。
ところが一度彼が語り出すや、こうしたほかの印象はすべて消えてしまった。私はあんな美しい日本語というものを聞いたことがない。彼の言ったことの内容を正確に思い出せないのが残念だが、私はあの言葉づかいと話しぶりを忘れることはないだろう。彼の、なにか古風な言葉づかいのために、その内容がすべて覚えられるように思えた。あれと比較できるほどの優雅さで英語を話すのは、私の経験ではバートランド・ラッセルだけだ。五官はぼんやりしていたが、私は強いよろこびを感じた。荷風先生に興味を抱かせるようなことが何も言えなくても、そんなことは全く問題でないと思われて来た。耳を傾けているだけで十分だった。」

ドナルドキーンは、荷風との出会いにとても強い印象を得たらしい。彼は何回かその話を書いている。
上の「思い出の作家たち」が載っている「著作集4」の中に、もうひとつ荷風を訪ねた文が有る。『声の残り』である。
これも引用したい。

「永井荷風には、一度だけ会ったことがある。実はそれだけでも大したことなのだ。荷風は、特に晩年、奇人的性癖が強くなって来て、作家や知識人と付き合うのを極端に嫌がったからだ。新聞記者を嫌ったのは若い時からずっとだった。訛りで東京生まれでないことが荷風にばれた記者には、特ににべもなかった。そして記者の問いがどんな問いでも、返事は決まっていて、「どうぞ」というただ一言だった。だからどれほどねばり強い記者でも、しまいにはうんざりして帰っていったのだという。
私が彼に会ったのは、一九五七年、あるいは五八年だったろうか。それに先立つ五六年に、私の編纂による英訳の『日本文学選集』が出ていた。そしてその中には、私が訳した荷風の『すみだ川』が入っていた。だから私は、当然荷風にも一冊を贈呈していた。私が彼に会う資格があったとすれば、それくらいのものだったのである。そしてその会見も、もし荷風の出版者である嶋中鵬二がついて来てくれていなければ、おそらくは実現しなかったのだろう。
嶋中と私とは、市川まで車で行った。だが荷風の家のかなり近くまできた所で道幅が急に狭くなって、車が通れなくなってしまった。そこで私たちは車を降りて残りの距離を歩くことにした。家には表札が出ていなかったし、彼の有名な偏奇館とは違って、特にハイカラな建物ではなかったので、すぐにそれとは分かりにくかった。とにかく家を見付けて、入って行った。私はそれまで、日本人の家に初めて入った時、家の人が「きたないところですが」とへりくだって言うのをよく聞いたことがあった。しかし言葉どおり本当にきたないことを実感させられたのは、実はこの荷風の家が初めてであった。例えば私たちが畳の上に座った時、もうもうたる埃の煙が立ち上ったものだ。
間もなく荷風が姿を見せた。荷風という人は、まことに風采の上がらぬ人物だった。着ている服はこれといって特徴のない服で、ズボンの前ボタンが全部外れていた。彼が話し出すと、上の前歯がほとんど抜けているのが分かった。しかし彼の話すのを聴いているうちに、そうしたマイナスの印象なぞ、いつの間にかどこかへすっ飛んで行ってしまった。彼の話す日本語は、私がかつて聴いたことがないくらい美しかったのだ。第一、私は、日本語がこれほど美しく響き得ることさえ知らなかった。その時彼が話したことの正確な内容を、それが無理ならせめて発音の特徴だけでも憶えておけたらよかったのにと悔やまれる。ところがその日は、前の晩の飲みすぎから私はひどい二日酔いで、荷風がなにをしゃべったか記憶が全く定かではないのだ。それにしても、彼の話し言葉の美しさだけは、あまりにも印象深くて、忘れようにも忘れられない。
荷風は、私が訳した『すみだ川』の翻訳を読んでいて、褒めてくれた。しかし今自分で読み返してみると、ところどころミスをしていることに気付いて、顔から火が出そうな思いをする。それはたいてい私が当時東京や日本の習俗をよく知らなかったことから起こったミスなのだ。例えば今川焼とは、言うまでもなくその発祥が江戸時代にまでもさかのぼる大衆菓子のことだ。ところがそれを私は、陶器の一種だと勘違いしている。荷風はおそらくこうした間違いに気がついていたはずだ。しかし同時に、近代日本文学の中でも最も美しい作品の一つであるこの小説への私の深い愛情を、感じ取ってくれていたと私は思う。ただの一回きりであっても、荷風に会えたことは、私にとってこの上ない幸運だったのである。」

ドナルドキーンは「私が彼に会ったのは、一九五七年、あるいは五八年だったろうか」と書く。自著の英訳版「すみだ川」が出たのが1956年で、これを「荷風へ贈呈している」とあったので、さっそく荷風の日誌「断腸亭日乗」を調べてみた。1957年3月22日にある。しかし「外国人(キーン)が訪ねてきた」という記述はない。この時に同行した中央公論者社長・嶋中鵬二の来訪の記録は幾つもあるのだが・・
キーンに強い印象を与えた荷風だったが、荷風には「嶋中が連れてきた、ただの同行者」だったのかもしれない。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました