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堀留日本橋まぼろし散歩・#28/芳町や 日和下駄まで 流れけり

そろそろ夕方の風が吹く甘酒横丁を歩いていた。
「芳町・浪速町がなくなってぜぇンぶ人形町になったのは1971年昭和46年だ」
「堀が埋められたのもその頃でしょ?」
「ああ、浜町川が無くなったのは1972年。その頃に箱崎Tキャットができた。ロイヤルパークホテルはなかった」
「ええ!そんなに箱崎のシティターミナルって古いの?」
「ああ、最初は羽田のためにあった。でも成田が1978年に開業してここで航空会社の搭乗手続きや出国審査の手続きできるようになったんだ」
「そうそう、箱崎でいつも出国審査を受けてたわ。いつのまにかなくなっちゃった」
「2002年だよ。WTC911のテロの煽りで北米線は搭乗空港以外で手続きをしてはならぬというお達しがアメリカ政府から出てね、それで閉鎖になったんだ。JALとノースウエストがしばらく残っていたような気がするが・・あれも早晩なくなって、それからは凋落の一途を辿ってる。まだ有るのが不思議なくらいだ」
「そうねぇ、空港行きのリムジンバスも競合が出てからは乗る人減ってるから、私たちも箱崎へ行くことなくなっちゃったわね。・・でもどうのかしら?箱崎を利用したお客さんって、人形町まで足を延ばしたかしら?」
「商店街はそれを期待しただろうが・・水天宮の交差点を渡って向こうまで行く人は稀だったろうな。晴海トリトンだってそうじゃん。アレが出来た時は勝どきの飲食に大きく寄与するだろうなんぞといわれてたが、あそこで働いてた人は、ほぼそのまま勝どき駅へ向かって。交差点を渡ってくる人は稀だった。おんなじさ。ヒトの流れは水の流れに似ている。方向が定まりゃ、そっちにしか流れない。大きな交差点や橋はヒトの流れを分断するもンさ」
「なるほどねぇ」

浜町川の埋め立て跡・浜町緑道公園にある「勧進帳の弁慶像」を横目で見て直進すると「浜町藪そば」これも横目に見て直進すると清洲橋通りに出る。
「あら、藪そば、通りすぎるなんて珍しいわね」と皮肉を言われてしまった。ここは神田の暖簾分けで"こっちのほうがいい"と僕がいつも言ってるからだ。でも今日は寄らない。通りに出ると左前方に明治座が見えた。
「この辺りは武家屋敷が立ち並んでいた。徳川幕府が倒れて、お国が明治革命政府のものになると、こりゃいかん!というばかりに大名連中はみんな国許に帰っちまったんだ。明治政府は、その大名たちの屋敷跡を全部濡れ手に粟で手に入れたんだよ。そして上屋敷・下屋敷・別宅ドレでも一つだけ残して全部明治政府のものにしたんだ。この辺りもそうさ。そして、民間に払い下げて経営資金に充てたんだ。明治座が此処にできたのもそのおかげだ。明治座の前身は両国橋畔にあった菰張芝居だ」
「菰張芝居?」
「ああ、江戸時代、類焼を防ぐために広場を各所に置いた。しかし、いつのまにかそこで商いを始めるものが出来てね。幕府は致し方なしとお目こぼしをしたんだが、建物を作ることは許さなかった。それで菰張りさ。両国橋畔の菰張芝居は大変な人気
それが明治6年に此処へ移ってきたんだ。それを京都の松竹合資会社が買い取ってね、歌舞伎座、新富座、松竹と合併し、松竹興行株式会社になったんだ。昭和6年だ」
「ふうん。ここも松竹なんだ。しらなかったわ・・でもここまで歩いたのは初めてね。歩いてみると、やっぱり明治座まではわりとあるわね」
しばし佇んでから「引き返すぜ」と僕がそっけなく言うと「あら、ずいぶんアッサリね」と嫁さんが言った。
「マンガのミュージカル化の様子を観に行っても仕方ないだろ」
「あら・・ミュージカルなの?」
「ああ、どんどんと新進に発表の場を提供する明治座の姿勢はすばらしいけどな。しかしその心意気に肖って利用する側が、邦画も何もかも全部マンガネタの連中じゃあオサむくなるばかりだ。だいいち、マンガネタじゃないと集客できない・・というのもオサむいかぎりだ。今日の目的は芳町浪花町の夢まぼろしを追う"日和下駄"だからな。見たくない"いま"はみない」
「はいはい」
そう言って、くるりと引き返した。
「浜町公園も寄らないの?」
「寄らない」
で。帰りに口直しで「ばち英」に寄ろうとした。NYCの孫たちに何か買って送ってやるか、と思った。・・ない。あれぇ。記憶違いかと思って少し歩いてみたけど・・ない。
みるみる不機嫌になってく僕を見て「なに探してるの?」嫁さんが言った。「ばち英という店だ。見つからない。」
嫁さんが、クレープ屋に聞いてくれた。
「閉店したんですって。この隣のカフェになったんですって」
・・しばし、茫然とした。100年以上続く老舗も支えられないのか?この国は・・
「草臥れた。帰ろか」
芳町や 日和下駄まで 流れけり


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました