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ボルドーれきし ものがたり/3-6 "ガリア人の信義/ローマ人の不義"

ガリアの人々の性格を示す逸話をひとつ、紹介したい。
B.C390年、最初のローマ・ガリア戦争の時。ガリアの族長ブレンヌスは特使を出して、ローマと話し合いの席を設けた。 
話し合いはローマ市の郊外で行われたが、その席で激昂したローマ将兵クイントネス・ファヴィウスが、ブレンヌスの特使を殺してしまった。ファヴィウスは貴族の子である。 

ガリアは怒り、すぐさまローマ総攻撃といきり立った。当時兵力は圧倒的にガリアのほうが上だった。
このいきり立つガリアの将兵を族長ブレンヌスが諌めた。そして彼は殺人者ファヴィウスの引き渡しを求めて、使節をローマへ送った。ローマはこの使節を殺し、却ってファヴィウスを軍司令官に任命し、ガリア討伐に出た。 
ローマは、完全にバルバロイ思想に毒されていたのだ。
文字も持たず異神に奉ろう輩との間に、約束も信義も持つ理由がなかったのである。 

戦いはガリアの圧勝で、ローマは完膚まで叩きのめされた。
それでも・・いや、だからこそ・・かもしれない。
ローマの中に優性民族意識は深く残った。
バルバロイを蔑視し、バルバロイとの間の約束は、口先ひとつでコロコロと変えるローマ人の態度は、カエサルのガリア戦記の中にも無数に散見する。
キリスト教の中に巣食う「キリスト教徒でなければ人に非らず」という体質の萌芽が此処にある。 

ガリアは、文字を持たなかった。
だからよけいに、口約束は厳格に守られた。信義は最も重要な人と人の関係を紡ぐ鎹だったのだ。
ローマは、ローマ法を如何に解釈するかで、人の本質である"仁と信義"は、いとも簡単に握りつぶされた。信義は他者に向かうものであり、仁は己自身に向かう姿勢だ。その己自身に向かう姿勢さえ、ローマは口先で変化させた。 自他を口先で弄ろうする文化はローマが起源である。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました