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ボルドーれきし ものがたり/4-1"ストラボンとプリニウス"

カエサル軍がブルディーガラ(ボルドー)に残した最大の問題は、この街の豊かさをローマに強く印象つけたと云うことです。
ローマ属州の外に(意図的にか)作られたブルディーガラは、租税回避地(タクスヘィブン)でした。如何に大きな商取引があっても、ローマはこれに課税できなかった。だからこそ挙って、地中海側の商人がこの地に居を構え、北のガリア人も集まったのでした。沼地の真ん中にある丘の上に街が出来上がったのは、そこが貿易の中継点として可能だったことに相まって、"無税"というのが、大きな理由だったわけです。
疾風のようにカエサル軍が通り過ぎた以降、ほどなくしてブルディーガラはローマの管理下に入りました。初代皇帝アウグストゥス時、ブルガーディアは皇帝の属州ガリア・アキタニアGallia Aquitaniaの中へ組み込まれました。ボルドーの商人たちは、これを粛々と受け入れた。この時から彼らの商取引に、課税が為されるようになったのです。

しかしその事がブルディーガラの交易ルートの拡大に大きな恩恵を生み出したのです。それは陸路による交易です。
ガリア・アキタニア属州の州都はメディオラヌム・サントヌムMediolanum Santonum(現在のサント)でした。

両都市間は約120km。実は古くからガロンヌ川を渡りドルドーニュ川を渡ったサン・アンドレ・キュザック辺りを始点として、両都市間は交易用の道で繋がっていたのです。この道がローマの管理下に入ることで、軍の移動に耐えられるよう急速に整備され、同時にクルスス・プブリクスCursus publicus(アウグストゥス帝によって作られた駅伝/郵便制度)で繋がると、ブルディーガラの商人は、大きな支店を幾つも州都へ置くようになりました。

それは州都メディオラヌム・サントヌムが、さらに完全な整備がされたローマ街道によってレグドゥーヌムLugdunum(現在のリヨン)と繋がっていたからです。もちろんローマ街道は軍道ですが、有事でない限り一般の使用が認められており、交易のための道として、極めて有用でした。なのでブルガーディアの商人たちは、新しい顧客を、遥か東のローヌ川周辺の中央ガリア(ガリア・ロマーナ)人たちへ求めたのです。

こうして水路だけではなく、陸路も彼らの販路として出来上がっていった・・ しかし運搬のために利用する容器アンフォラは陶製です。運搬中、ちょっとした衝撃で簡単に破損してしまう。長距離の陸送には全く向かない容器でした。重くて、脆くて、取扱いがし難い。それでもアンフォラが使われたのは、それ以外に大容量の容れ物がなかったからでした。当時既に木樽は、ガリア人たちによって発明されていました。ギリシャ人もイベリア人も、ラテン(ローマ)人もその存在は知っており、一部地方では使用されていました。しかし木樽の密閉性はまだ完成されていません。ワインのような液体物の輸送には向いていなかったのです。その密閉性が確立するには、まだまだ千年以上かかります。

他には、動物の革で作った容器などもありましたが、これは大量輸送に向かないだけではなく、ワインに特有の臭いが付いてしまうので、普及はしませんでした。ガラスで大型の容器を作るのは不可能でした。それこそ瓶の底を作る(耐久性を持たせる)技術が普通に利用されるようになるには、あと1500年くらいかかります。 したがってアンフォラしか無かった。
これを奴隷が担いで運ぶか、荷馬車で運ぶしかなかったのです。
そのためには道路の整備が必須です。
ガリアの主要拠点を縦横に結んだローマ街道は、戦車と兵站を運ぶ機動部隊のための道です。整備は完璧だった。ブルディーガラの商人たちはこれを大いに利用しました。

現在、リヨン周辺の街道沿い/川底などで発見されるアンフォラ(ワインを入れていた陶器)の本体/栓などに、相当数ブルガーディアの商人たちの刻印が押されているものがあります。両都市間でかなり大掛かりな流通があったことが窺われます。
ナルボンシスの農民(退役軍人)たちが作ったワインは、地峡を越えてブルガーディアに集約し、そしてこれがディオラヌム・サントヌムに運ばれ、それからローマ街道を陸路で、馬車によって遥か東のレグドゥーヌム(現在のリヨン)へ運ばれたのですから、これは驚くしかないですね。

ボルドー(古名ブルディーガラ)の最初の500年を話す時、ストラボンとプリニウスが水先案内人です。
「ギリシア・ローマ世界地誌 龍溪書舎」と「プリニウスの博物誌 雄山閣出版」を横に置きながらのおしゃべりになる。 ここはその二人のことに少し触れてみたいと思います。

ストラボンStrabonはローマ時代のギリシャ人歴史家/地誌家です。B.C.63年頃小アジア北部にあったポントス属州アマセイアで生まれています。裕福な家庭に育ち小アジアのニュサに学び、後にローマで哲学と地理学を学びました。成人してからはローマやアレクサンドリアに長期間滞在し,またイタリア,ギリシャ,小アジア,エジプトの各地を旅行したと云われます。晩年はポントス属州アマセイアに戻り、A.C.23年頃、同地で亡くなりました。

彼はストア学派Stoicismの信奉者でした。理(ロゴスlogos)を尊び、これによって情(パトスpathos)を制御し、不動心(アパティアApatheia)に至ることを善しとする人でした。英語で云うstoicというのは、これが語源です。

ストア学派は、紀元前3世紀初めにギリシャ/キティオンのゼノンを中心に生まれた考え方で、彼らが石柱(ストア)の許で議論したことからその名前で呼ばれるようになりました。ストア派にとって理(ロゴス)は全ての根幹であり、突き詰めた所で之をほぼ神格化さえしていました。そして最も重要なのは"発言することより行動することである"とした。

ストラボンの遺した2つの著作「歴史書」「地理書」は、まさにその具現化だと云えましょう。残念ながら前者は散逸し、残っていません。その一部を引用された書物から窺い知ることしかできない。「地理書」は残りました。日本語では「ギリシア・ローマ世界地誌」というタイトルで龍渓書舎から出版されています。

以下が各ページです。
「ギリシア・ローマ世界地誌 飯尾都人訳/龍溪書舎」
第1巻  ホメロス詩の地誌的解釈と地形変化成因論(91頁)
第2巻  人の住む世界の測定と区分の実際及び(122頁)
第3巻  イベリア(70頁)
第4巻  ガリア(63頁)
第5巻  北・中部イタリア(79頁)
第6巻  南部イタリアとシケリア島(60頁)
第7巻  ギリシャ以北の世界(112頁)
第8巻  ペロポネソス(104頁)
第9巻  ギリシャ本土東部とテッタリア(96頁)
第10巻 ギリシャ本土西部とクレタ島(75頁)
第11巻 北方アジア(84頁)
第12巻 黒海南岸とその内陸(89頁)
第13巻 トロイア地方とその周辺(84頁)
第14巻 イオニア地方と小アジア地中海沿岸(101頁)
第15巻 東方アジア(78頁)
第16巻 中東アジア(91頁)
第17巻 リビュア(93頁)
資料 巻7断片(20頁)
解説 (36頁)
あとがき(2頁)
訳者の飯尾都人氏が、ひとつずつ丁寧に小見出しを付けて解説をしています。この小見出しだけ通読しても良いほど、きちんとまとめられており素晴らしいものです。ぜひ実物を手に取ってみてください。

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さて。ガイウス・プリニウス・セクンドゥスGaius Plinius Secundusですが、彼はストラボンが無くなった頃A.D.23年に、北イタリアのコムム(コモ湖のある)で生まれています。彼は成人して政治と軍人に生きましたが、やはりストア派の信奉者で、極めて理的(ロジカル)にものを考える人で、ローマ帝国の属州総督を歴任する傍ら、生涯をかけて自然界を網羅する百科全書『博物誌』を著しました。その子、小プリニウスによると彼は夜明け前から仕事をはじめ、勉強している時間以外はすべて無駄な時間と考え、読書をやめるのは浴槽に入っている時間だけだったと言います。

A.D.79年。ウェスウィウス山(ヴェスヴィオ山)の大噴火のとき、彼はナポリの近くミセヌムで、ローマ西部艦隊の司令長官をしていました。彼は火山爆発で壊滅したナポリへ生存者の救出へ自ら向かい、此処で死亡しています。

「プリニウスの博物誌 中野定雄/中野 里美/中野美代 山閣出版」
《第1巻》
第1巻(序文/2巻以降の内容目録と典拠著作家の一覧表)
第2巻(宇宙の構成/惑星の運動/諸現象 ほか)
第3~6巻(都市/種族/山河/湖沼/海島 ほか)
第7巻(人間の探究/運命/寿命/死/文字/武器/時代
第8~11巻(動物と人間の体の構造と器官 ほか)

《第2巻》
第12~17巻(各種の香木・木材をはじめ人間生活に有用な樹木の栽培法/ブドウ栽培とブドウ酒/香料/パピルス紙/飲酒/木製家具 ほか)
第18・19巻(各種穀物・植物・野菜の栽培法/食生活/農業 ほか)
第20~25巻(薬用植物の薬効/製薬処方/医学知識 ほか)

《第3巻》
第26・27巻(薬剤と効用/病気の増加と医科の堕落)
第28~32巻(動物から得られる薬剤とその効用/種々の病気に対する治療法/医学の起源と発達/医者に対する不信感/占い/通信/魔術)
第33~37巻(貴金属・各種金属の採掘法と薬効/貨幣/絵画/建造物)

同翻訳は、まさに中野三氏の労作で、素晴らしいものです。本稿を書く上でも各所で引用させていただきました。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました