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夫婦で歩くシャンパニュー歴史散歩2-1-1/エペルネー村へ、どうやって行くのか?01

https://www.youtube.com/watch?v=j-sisxxK1iY

エペルネーepernayはランスの森・南に有る。マルヌ県である。パリ盆地東部のマルヌ川左岸にある。ランスからは南南西約 30km。・・村として史書に名前が出るのは5世紀くらいから。クローヴィスがランス大司教だったレミギウスRemigiusに与えたことからである。
レミギウスは、クローヴィスがガリア人・ソワソン司教の娘セリナに産ませた子であるとも言われている。ソワソン司教は、北のセルニー・アン・ラオノワCerny-en-Laonnoisにあった小さな教会の司教だ。その孫であるレミギウスは、クローヴィスが戦歴を重ねると共に出世を重ね、ランスの大司教にまでなった男だった。そしてノートルダム大聖堂でクローヴィスを洗礼した人物になった。

クローヴィスがレミギウスにエペルネーを与えたのは、エペルネーが石切り場の村として膨大な利益を生み出す村だったからである。クローヴィスはその採掘権をレミギウスに与えたわけである。

・・石切り場としてのエペルネーの歴史は長い。ここを採石場にしたのはローマ人たちだった。
アウグストゥス帝がガリア人・レミ族Rèmesを平定したとき(BC27)その首都ドゥロコルトルムDurocortorumを、彼は支配下にした。このドゥロコルトルムがランスの祖型である。ランスReimsは、このレミ族Rèmesを由来とする名前だ。
アウグストゥス帝はガリア平定のためにローマ街道を精力的に建造した男でもあった。ローマ街道は、大量のローマ軍を派遣するために建造されたのだが、平時には交易の民が大いに利用していた。そのために街道の要所には自然と大きな町が出来上がり、市が開かれていた。
実はレミ族の首都ドゥロコルトルムは、二つの大きなローマ街道が交差するところにあったのだ。

ローマ時代、属州ガリア・ベルギカの中心市になったのは、パリ盆地北側という有利な地勢のおかげである。
・・ローマ人はドゥロコルトルムを精力的に開発した。公共浴場や劇場そして神殿、市壁の外には剣闘士競技場を次々に建造した。いまでもランスが格子状の街なのは、それが原因だと云われている。

実は、ローマ人は街を石で作る。紙と木やレンガや漆喰ではない。
しかし石材は運搬が至難である。そのためローマ人はランスの周辺岩盤を削って街を作り上げていったのだ。ランス周辺の地層は白亜紀の石灰岩が地下20mくらいから広く大きく続いている。剝き出しの部分も多く、麦などの農作には不向きだったが、街を作り上げる石材を調達するには最適な場所だったのである。
いま僕らはその砕石跡を市内のメゾンがもつcaveあるいはcoporticoとして見ることが出来る。そしてエペルネーでも採石場跡は見ることができる。
今回のエペルネー散歩の大きなハイライトは、このローマ時代から残っている採石場caveをもつメゾンを訪ねることである。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました