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ボルドーれきし ものがたり/3-4"エトルリア"

ギリシャのヘロドトスは以下のように書く。

B.C.1000年頃、小アジア/リュディアにおいて・・ 
「…いくらかたっても飢饉は改善されず、そこで彼らはくじ引きをして、住民の半分は次の日にゲームをせずに食事をすることとした。こうして彼らは18年間を切り抜けたが、事態は改善されず悪化していった。このため王はすべてのリュディア人を2つのグループに分け、くじ引きによってどちらか一方が移民することとし、自身を居残り派の長に、彼の息子ティレヌス(Tyrrhenus)を出発部隊のリーダーに指名した。

離郷くじを引いた人々はスマルナ(Smyrna、現イズミルの一部、トルコ西部、エーゲ海に面する)に下り、船を建造して持ち物をすべて積む込み、生き延びる土地を求めて船出した。多くの島々を通り過ぎた後、イタリアのウンブリア(トスカーナ東隣り)に到着し、そこで都市を建設、指導者である王の息子ティレヌスにちなんで、自らをリュディア人ではなくティレニア人と称し、現在に至るまでそこに住んでいる…」

実は、興味深いことにトスカーナ地方の牛のDNAもまた、他の類型的なイタリア原産のそれとは著しく違うのだ。トスカーナの牛は、近東で見られるそれと酷似している。当時の人々は家畜をともなって移動する。したがってこれはエトルリア人が、ラテン人(印欧語人)ではなく他地区から移り住んできた人々であると云う強力な傍証になっていると云えるのだ。

このエトルリアの最も旧い残滓は、ボローニャの外れヴィッラノヴァフランカ(現在のカステナーゾの一地区)で見つかっている。B.C.1000年頃の遺跡である。アナトリアから拡散した農耕技術/牧畜技術を持つ人々は、彼らを片目で見ながらポー平原を南進したに違いない。

B.C.390年、ガリアの族長ブレンヌスが率いるセノネス族がエトルリアのクルシウムを襲った。 
当時ローマは、まだ(ローマがどう言おうと)後進国だった。共和政は開始していたが灌漑技術を背景とした農業国として発展途上にあった。軍事力は決して強くない。エトルリアの諸都市国家との間で領地争奪戦を繰り返してはいたが、何れも膠着状態にあった。奇しくもその間隙を突いてガリア/ブレンヌスが南へ侵攻したのである。ブレンヌスの進撃はエトルリアを跨ぎローマへ至り之を蹂躙している。しかし占領はしなかった。略奪後は北へ引き上げている。

この戦いがローマを鍛えたことは間違いない。危機感は人を大きく育てるものだ。灌漑技術による高生産力を背景に、ローマは軍事国家としても巨大化していくのだが、その過程でエトルリアの諸都市国家/他ラテン都市国家を吸収併合し、ローマは急速に帝国として形を整えていく。面白いことにこの時期の施政官の多くはエトルリア人だ。それだけを見ていると・・ローマがエトルリアを吸収したのか、エトルリアがローマに巣食ったのかよく判らなくなってしまう。恰も日本国に起きた大激動「大化の改新」を見るようだ。



無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました