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葛西城東まぼろし散歩#34/葛西葛飾なつ時雨#04

「下総の郡部だった葛飾は、江戸時代に入ると武蔵国に編入された」
「へぇ・・どうして?」
まあ、なんでも「どうして?」をいう人だ。‥話するときは、最初にどうして?仕込んでおかないといけない。
「太日川というのが有った。渡良瀬川を江戸湊に繋いでた川だ。相当大きい。これが家康さんの利根川東遷で大きく変えた。名前も江戸川と呼ばれるようになったんだ。江戸川が機能するようになるまでは60余年かかったという。この江戸川を挟んで東が下総。西が武蔵国になったんだ。それで江戸川から西の葛飾郡は武蔵国に編入されたんだよ。‥それまでは古利根川/庄内古川だな。でも川をもって境界としたかどうかはよくわからない。『増補葛飾区史・上巻・第二節武蔵国所属のころ』には『正保元年(1644)以降全く武蔵国管下に移された』とある」
「江戸時代より前の具体的な資料はないの?」
「ん。あるのは『寛永国絵図』くらいでね。これだと古利根川、葛西領では太日川が武蔵・下総の国境として描かれている。絵図だからな、あまり詳細には描かれていない。葛西が武蔵国に編入されたほうが旧いからな。それが江戸時代に江戸川が確定して、これを境界としたという話だ。郡代官は伊奈氏だよ」
「伊奈氏って、新田開発に尽力した人ね」
「そうだ。葛飾郡はこの頃から畑や田んぼを大きく広げ始めている」
「あぁ、お役所の監理の都合というわけね」
「まあ、そうとも言い切れないが・・」

「ふうん。ところで葛西ってそんなに昔からあったの」
「うん。下総国葛飾郡の西半分は葛西と呼ばれた。東半分葛東だ」
「葛東って初めて聞いた」
「葛西は武蔵国に編入されて名前が残った。葛東はいつのまにか消えちゃったんだ。特に下総という切り口そのものが明治に入ると雲散するからな。・・比して葛西は残った。当初、武蔵国豊島郡だった本所地区の牛島(向島、吾妻橋、東駒形あたり)深川地区の永代島(永代、佐賀、福住あたり)が武蔵国葛飾郡に編入されて代官管理になった。両国もそうだ」
「葛東は消えて、葛西は残ったの?」
「・・実は、葛西という言葉にはもう一つ大きな価値が有ったんだ」
「ほら出た。なにか仕掛けがあると思ったわ」
「平安時代末期に入ると、牧馬が広く盛んになってね、桓武平氏の内秩父氏の一派が葛西に居を構えたんだ。彼らは葛西氏と名乗った」
「葛西氏って源頼朝の配下でしょ?吾妻鏡だっけ」
「そうだ。よく憶えてるね。治承4年(1180年)10月2日に葛西清重が、源頼朝の蜂起に呼応した。彼は頼朝と共に戦い、鎌倉まで渡った。
戦後鎌倉幕府から東北に所領を与えられている」
「下総には戻らなかったの?」
「ん。彼の所領は千葉氏が支配した。千葉氏が後北条氏に服属した後は後北条氏の武将が治める様になってる。そして家康さんだよ。家康さんのお討ち入りで、彼の支配下になっているんだ。400年余りの時間軸で起きた変転だ」
「支配者が替わっても民の生活は残ってる・・というわけね」
「ん。しかし家康さんはとんでもない大きな仕掛けを考えていた。利根川の治水だ。利根川を渡良瀬川と合して旧鬼怒川から銚子へ流したんだよ。そして一部のみを太日川に流して江戸湊へ流した。この半世紀にわたる大規模な治水工事が江戸川を作ったんだけど、それが葛飾地域を大きく変えてしまったんだ。二つに分断されたんだ。」
「分断?」
「ん。葛西の西側は寛永年間に下総から武蔵国になったと言ったろ?西側地区は江戸が巨大化すると共に近郊地域として進化したんだ。
まず明暦の大火をうけて木場に貯木場を移した。元禄年間に永代橋が出来たことで深川/本所は江戸市の中に取り込まれていったんだ。
葛西東側は、そうはいかなかった。まだまだ近郊農村の地だったんだ。当時の葛西には葛西氏の末裔である葛西権四郎がいたしね、都市化するほうこうではなく近郊農家として大いに栄えたんだ。・・それが、いま僕らが見ている砂町・葛西、江戸川地区だ」
「なるほどね。なんとなくイメージが沸くわ」
「ん。キーワードは中川だ。中川を境にして「東葛西領」と「西葛西領」と分けられた。そして、東葛西領は「上之割」「下之割」とし、西葛西領は「本田筋」「新田筋」に分けて、4区分されたんだ、その4区分での施政は明治の御代まで変わらなかった」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました