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深川佐賀町貸し蔵散歩#06

もうひとつ注目すべきは大島町である。
大島町の祖型は徳川入城前に成立していた。おそらく地元の漁師が漁船を係留したり漁の捌きなどに利用していた小島だったようだ。そのため、大島には名主がいなかった。
前述相川家・家伝『寛永録』にも「元禄七戌年十二月十七日、当名主助之丞九代以前助右衛門え支配付被仰付」とある。1694年になってようやく黒江町の名主である斎藤助右衛門の支配付きとなったことがわかる。

大島町については「寛永年中、右大嶋町外七ヶ町、町場新開相成候頃より、同町二而源太郎義貝類商ひいたし罷在、此者手広渡世」「大嶋町辰右衛門店漁師地小買人藤兵衛義、往古より右町住居、下総国検見川赤貝仕入引請候二村 寛永年中両丸江赤員直納、キ人御台所え差出候」などの記録がみられる。
寛永期になると他7町に先んじて、貝類の商いを手広く行う者が現れた。小買人藤兵衛については「御書付書類並に記録之義は漁師頭藤兵衛なるもの所持、此を宝永年間漁師町大火に焼失致云々」とあるので、彼が漁師頭だったことが判る。「新地(深川猟師町)出来以前は、当地所南東之方海岸付二而、 西北之方地窪ニ有之、島之形=相成居候」とあるから、間違いなく家康入城以前から同地で漁師を営んでいた違いない。

構造的にみると・・
江戸湊には、上代より小魚貝類を獲る漁師たちがいた。律令制時代に近畿中央から多くの渡来人が新天地を求めて関東に渡ってきた。彼らを相手に漁師たちは釣果を鬻いでいたに違いない。
その商関係はそのまま道潅さんの時代も続いていたのだろう。当時の江戸湊は、いまの品川目黒あたりが港として栄えていた。隅田川は未だ荒川の細い支流・宮戸川で、周辺も連々と続く湿原だった。小舟を操る漁師以外は生活できる場所ではなかったのだろう。
そこに家康入城と共に摂津の漁師たちが移り住んできた。彼らは取漁技術的に優れており、なおかつ家康の錦の御旗を背負っていたので、おそらく易々と地元漁師を席巻したに違いない。実は、彼らの専有は江戸時代を超えて明治初期まで続いており、漁猟権についての紛争は絶えなかったようだ。
徳川幕府は、こうした漁師の管理者として徳川臣下の武士を置いた。『寛永録』に「武州之内一所を開く 酒井家よりも見継之俸録ヲ被」とあるところから考えて、その選定は酒井忠世が行っていたと考えられる。
史料を見ると江戸城には酒井家が魚介類の上納していたようだ。「御菜御肴三拾六度ツ、差上」とある。
1745年(延享2年)12月24日付けの書付には「拙者共町々より御菜御肴指上候義、百拾七御本丸江伊奈半左衛門様御取次 而差上来申候、尤西御年已前寛永六巳年より猟師町と名目二而、毎月三度宛、丸江は一切差上不申候」とある。
つまり江戸城への魚介類の上納を条件として漁師の居住地として成立したと考えられる。
前述したよう『寛永録』の冒頭部分。
「猟師町之儀は、寛永六巳年、汐除堤之外干潟之処、町場二取立申度旨、治郎兵衛・藤右衛門・新兵衛理左衛・彦左衛門・助右衛門・助十郎・弥兵衛、八人之者、半十郎 〔伊奈忠治〕様江奉願、雅楽頭(酒井忠世・大炊頭〔土井利勝〕 様江被為仰上候処、徳院様江言上被為在、町場新開致候処、漁師町と惣名相唱、小訳町名自分名前を以相唱、御菜御肴三拾六度差上」に記録として残されているように、嘆願書が直截的に徳川中枢部を駆け上っていった理由はこれに違いない。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました