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堀留日本橋まぼろし散歩#26/安産祈願の水天宮縁起話#02

「社紋は白玉椿。本宮にはいっぱい植えてある。白玉椿と躑躅は久留米の花だ。白玉椿はイザナギ・イザナミに供えられる花で中々結構なものだ。それで中央殿の鈴な。鈴緒に使う布地(さらし)が月に一度替わる。この"鈴緒〟を戌の日に安産の御祈薦を済ませたものを織り込んで腹帯にしてる。ご祈祷所にお願いすれば譲ってもらえる。いまでもOKだと思うよ」
「あ。ウチもいただいた岩田帯ね。妊娠五ヶ月の戌の日に着けなさいって、お義母さんに言われたわ。それとお守り」
「ん。"いつもじ"だ。懐かしいこと、憶えているなぁ」
「あれって"いつもじ"っていうの?」
「ん。5つの神呪文字が書かれているんで"いつもじ"だ。大寒の頃、筑後川で汲んだ水を7日間祈祷して清めてから、これを使って墨摺って版木に塗って作るんだ」
「あら、見てきたような言いかたね。そう言えば、お義母さんに陣痛の時は『お札を水に浸してその水を飲むのよ』といわれたわ。ハイは言ったけど一度もやらなかった」
「出産してから、お礼参りにきたろ?あのとき、お守りを持ってきたじゃん」
「憶えてるわ。お義母さんに『あら、一度も使わなかったの?』と言われたから、よく憶えてる」

これ以上話してると雲行きが変わりそうだから「ンじゃ、つぎ行くか」と水天宮の階段を降りて新大橋通りと水天宮通りの交差点へ出た。
予定していた中央弁財天には寄らなかった。この中央弁財天の賽銭箱の鈴緒の上に、小さく水天宮"という額が掲げられてるんだけど、これは東郷平八郎が書いたものなんだ。まあ、東郷元帥には心の中でお詫びして交差点を渡った。
「でも・・なんで水天宮さんが、安産の神様なの?どちらかというと水難加護でしょ?」
「そうだな、いくつかのファクタがあると思うんだが、江戸のころにはもう水天宮さんは安産で有名になっていた・・諸説はあるが・・ひとつは犬公方五代将軍・徳川綱吉が、自分の愛犬を久留米藩主だった有馬則維公に授けたことがあるだろうな。有馬則維公は参勤交代の折には必ずこの愛犬を連れて江戸に上がったんだ。イヌは安産のシンボルだからな。そのお犬様に肖りたくて、みんな競って水天宮さんにお参りしたのが始まりだ。それと祭神が天御中主大神なことな。イザナギ・イザナミだ。国生みの神様だ。だから久留米の本宮のころには”安産〟の守り神とされていた。毎月一回、五日にはお屋敷の前から赤羽橋に列が出来て増上寺の裏門辺りまで続いていたそうだ。そのお賽銭の売り上げが年間三十両あったという記録が残っている。」


「お賽銭を売り上げ・・なんて言っちゃダメでしょ」
「あはは、佃の住吉さん。裏のお社の賽銭箱にクモの糸巻きつけた棒を突っ込んで、よく賽銭釣りをしたなあ、ガキの頃」
「賽銭ドロボー! それこそダメでしょ!」
「はは。賽銭の 泥棒だけは お目こぼし ってやつでね。
表の賽銭箱じゃできなかったけど、裏のお社ならできた。それでクモの粘々にくっ付いた硬貨で、日の出湯の傍に有った駄菓子屋が軒先に出してたもんじゃ焼き、食ったな。住吉さんはほんと佃の餓鬼どもにはご利益満々のお社だった」

御利益は 賽銭釣りと もんじゃ焼き

呆れ返ること、ひとしきりだったが・・おかげで雲行きだけは治まった。いやさかいやさか。
交差点を渡り切ると・・振り返りつつ嫁さんが言った。
「そういえば此処の交番って、ムカシから此処にあるわね」
「有馬様のお屋敷だからな。水天宮の一般参拝も許していたし、詰所として明治の初めに設置されたんだろう。きっと土地の持ち主は今でも、有馬様/水天宮だと思うよ。この辺りは蛎殻町だ」
「蛎殻町、小網町、浜町、小舟町・・みんな海のものね」
「ああ、もともとは江戸湊の葦原が広がる水ったまりだ。小魚を採る漁師たちの土地だった。それが家康さんの江戸大改造計画の花道になって、海運のための河岸が出来て問屋が出来て、大きな蔵が並んだんだ。いきおい、それに因む名前が多いのは時の趨勢だ。
蛎殻町は醤油・瀬戸物問屋が多かった。明治(8年)に入ると米穀取引所が置かれてね、それまでは米相場を握っていたのは大阪の堂島だったが、その頃からこっちへ大きくシフトしたんだよ。鎧橋を挟んで日本橋川の向こう側は証券取引場だ。向こうは証券取引。こっち側は商品先物取引という感じでな。僕が子供のころは都電が走ってた。2011年に東京穀物商品取引所が無くなって、またひとつ町の姿が変わり始めてるな。」


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました