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葛西城東まぽろし散歩#02/大島02

「この辺は、あなたがよく言う"葦っ原"だったんでしょ?でも島があったの?それで大島?」
新宿線東大島ホームを出て旧中川沿いに歩きながら嫁さんが言った。
「いや、という訳でもないんだが・・大きな中州くらいは有ったのかもしれない。この辺りが開拓されたのは、家康さんが引っ越ししてきてから50年以上経ってからだ。正保(1644~47)の頃だ。『江戸町鑑(弘化四年改版)』には「大ジマ」と書かれている。あれはおそらく深川漁師町に有った大島と区別するためだな」
「深川漁師町の大島って、この間歩いた清洲橋の傍ね」
「おお、そうだ。よく憶えてるな。たいしたもンだ。大ジマ村が大島町になったのは宝永3年(1706年)だ。深川上大島町と深川下大島町が有った。上大島町は横十軒川と小名木川が交差するところにあった。下大島町は小名木川が中川ぶつかるところに有った。そこに番所が有ったから、これに付帯して商売屋が自然発生的に出来て行ったんだろうな」
「番所?」
「ん。関所だ。江戸へ舟路で入ってくる荷物を管理していたところだ。中川船番所というのが有った。この辺りだ」
区の教育委員会が立てた看板の前に出た。
説明にこう書いてあった。

「中川船番所は中川番所 中川間所とも呼ばれ、江戸と関東各地を結ぶ河川交通路上に設けられた開所です。寛文元年(一六六一)に、それまで小名木川の隅田川口にあった幕府の川船番所が移転したものです。建物は小名木川に面し、水際には番小屋が建てられていました。 主に、夜間の出船入船、女性の通行、鉄砲などの武器・武具の通間を取締るなど、小名木川を通る川船の積荷と人を改めることを目的としました。
また、中川対岸の船堀川から、江戸川・利根川水系へと延びる流通網の要として、江戸中期以降には、江戸へ送られる荷物の品目と救量を把握する機能も担うようになり、海上交通路上における浦賀香所(現横須賀市)と並び、江戸の東側窓口として重要な役割を果たしてきました。
明治二年(一八六九)、全国の関所が廃止されたのに伴い中川番所も廃止されました。
平成七年に行われた発掘調査では、瓦や陶器片などの資料とともに建物の遺構が確認されました。
江東区教育委員会」

「深川・城東は川の街だ。5分も歩くと必ず橋にぶつかる街だった。江戸城から東南に走る川。その川と直角に交差する川と言った感じで、川そのものが碁盤の目状になってる。でも、ま・片っ端に埋めちまったから、そんな風情は無くなったけどな、それでもそんな残滓がはっきりと残ってるのは橋を架けた跡だ。川は無くなったけど、橋を架けるため盛土はそのままの所が多いんだ」
「へえ。そうなんだ」
「だからオートバイ転がしてると、ちっちゃな小山みたいのをポコポコと越えるのがこの辺りの特徴だ。そんな印象は城北・城南を走ってるとない。江東区・江戸川区・葛西あたりを走ってると、その風景の違いがよくわかるよ」
「なるほど~たしかに隅田川よりこちら側は、きちんと碁盤の目になってるわね。あれはまず初めに川筋があったからなのねぇ」
「ん。家康さんは一族郎党引き連れて、この江戸湊の水ッ溜まりへ越してきたとき、どう葦簀っ原を埋めるかと、埋めながらも、どう塩を運ぶルートを確保するかを模索した。それが道三堀の建造と小名木川の川筋の確保に繋がったんだ。そしてその延長として深川・城東が開発干拓されて行ったんよ。だから当初から意図的に碁盤の目のように川筋が/運河が作られた。
でも、もともと高低差が殆どない埋め立て地だからな。水田は作れない。水が流れないからな。だから農地ったって、畑しか作れない。年貢米が取り立てられる開墾にはならない。それでも江戸に人々が集まるようになると葉ものはどうしたって必要になる。そのニーズに乗って、城東地区の畑はビジネスとして成立して行ったんだ」

「なるほどねぇ」
「実はな、この辺りで撒かれた種は参勤交代で江戸に通った地方藩から持ち込まれたもんなんだよ。この辺りの農家はそうした種を使って栽培をしたんだ。伝統小松菜も亀戸大根も寺島茄子も、そしてのらぼう菜や胡瓜なんぞもそうやって、この地へ持ち込まれたものだ。江戸時代の、深川・城東の姿はそうやって作られて行ったんだ」」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました