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小説日本国憲法4-9/日本国憲法発令

枢密院を通過した新憲法草案は、幣原からバトンタッチした吉田茂第一次内閣に移された。GHQ/ホイットニー、ケーディスたちは暫く黙ってその経緯を見つめるようになった。しかし吉田は常に進行状況を彼らに報告し、そのためのGHQ詣では数十回に及んだ。完全な連係プレーで制定まで突き進んだわけである。

吉田は、組閣後すぐに憲法選任国務相という新しいポジションを作った。そして金森徳次郎をこれに充てた。金森は戦前の法制局長を務めた人物である。彼ほどその地位に相応しい人物はいない。飄々とした人格で、未だ帝国憲法下にあった議会での大日本帝国憲法改正審議は、殆ど彼一人で政府答弁を行っている。たしかに「ノラリクラリ」と酷評もされたが、見事金森は改正審議を乗り切っている。

6月25日、衆議院本会議に「帝国憲法改正案」が上程。28日までの4日間、質疑がなされ衆議院帝国憲法改正案委員会が組成された。委員長には芦田均が選出された。
委員会は総勢72人。あまりにも船頭多い。舟は当然山に昇る勢いとなった。
芦田均は当時の様子を、その日記に残している。いらだちを隠さない筆である。またGHQとの間にも齟齬が発生した。7月17日水曜日、政府案中に使用されている語句にケーディスがクレームをつけたのだ。金森はすぐさま第一生命会館へ向かった。
ケーディスは初期案の「主権」と書かれている部分が「至高の総意」と代えられている。これは「主権」の意味を表していないと言った。金森は、「至高の総意」については、何度も会議で説明しているので問題ないと応えた。その席は、これで収まったが23日火曜日再度呼び出され、この語句ではソ連やオーストラリアなどの反日な国から誤解を招くので「主権」に戻して欲しいと申し入れられた。そのときケーディスは「あなたは二枚舌を使っている」と言った。金森は憤慨し「それならば私はすぐさま辞職する」と言い放った。慌てたケーディスは「申し訳ない、通訳官が間違えた」と言い訳をしてその場を納めたが、「至高の総意」から「主権」への交換については一歩も譲らず、結局のところGHQの指示通り修正が為されてしまった。金森は、徒労感に打ち拉がれながらGHQを退庁した。厳しい夏の日差しが彼の肩を叩いていた。、

その7月23日、帝国憲法改正案小委員会が設置。具体的な改正案政策作業に入った。委員長・芦田均、委員は彼を含めて14名。佐藤達夫がアドバイザーとして参加している。 会議は7月25日から8月20日まで13回開かれた。しかしすべて非公開で審議の内容は知らされなかった。(後に公開されている)

8月21日、休止していた衆議院帝国憲法改正案委員会が再開。小委員会が作成した修正案が提出され、討議された。その過程で23日、樋貝潜三衆議院議長が越権行為を問われて辞職。後任は自由党の山崎猛が充った。そして8月24日土曜日、衆議院本会議に提出された。この会議で記名投票が実施。賛成421、反対8だった。反対票のうち6が共産党で、のこり2票は無所属議員だった穂積七郎/細迫兼光だった。 こうして漸く「帝国憲法改正案」は衆議院を通過した。
続いて貴族院に上程されたのが8月26日月曜日、討議は30日まで行われた。 この5日間の討議は、きわめて素晴らしいものだった。貴族院は名誉職であり大半がまさにお公家様と貴族だったのだが、GHQの公職追放令を受けて、こうした人々は全て議席を失っていた。そのためその空席を埋めるべく在野の有識者が集められたのである。

浅井清、佐々木惣一、高木八尺、高柳賢三、南原繁、牧野英一、宮澤俊義と、錚々たるメンバーである。実はこの5日間で、現在でも交わされる日本国憲法の問題点は全て洗い出されている。この5日間を越える議論は現在に至るまで現れていない。とくに特筆すべきは東大総長だった南原繁の発言である。南原は「この憲法は日本国憲法のものではない」と断言。「日本政府がこの憲法改正に対して、最後まで自主自立的に自らの責任をもってこれを決行することが出来なかったということをきわめて遺憾に感じ、国民の不幸、国民の恥辱とさえ私どもは感じているのであります。」と言っている。 しかし決定については、暗黙の了解が成されている。
論議は8月30日から、貴族院帝国憲法改正案特別委員会に移された。ここもまた45名からなる大所帯の委員会だった。安倍能成が委員長として選出。同委員会は8月31日から9月28日まで、ほぼ毎日開かれた。

9月24日、ホイットニー准将が自ら首相官邸を訪ねた。吉田茂は驚いた。第一生命会館にある彼の事務所以外で彼と会うのは2月以来7ヶ月ぶりだったからだ。応接室に迎えたとき、吉田はよっぽどとんでもないことを要求されるのだろうと覚悟していた。ところが、いざ始まるとホイットニーが要求したのは2点だけだった。ひとつは憲法15条に「成人者による普通選挙権を保障」すること、そして66条に「国務大臣文民規定を入れる」ことだった。吉田は拍子抜けした。しかし帰り際にホイットニーが笑わないまま言ったことがある。それは「今後、極東委員会からの横槍が入るだろう」ということだった。
おそらく、それが言いたいために准将は自ら来たのだろう・・吉田はそう思った。 この言葉通り、翌日、極東委員会から「全ての閣僚は文民でなくてしならない。参院は衆院に対して優先性を持ってはならない」という要求が出た。いわゆる「シビリアン条項」の追加要求である。安倍らは、すでに衆議院を通っている条文である。変更は無理だとケーディスに伝えた。ケーディスは言った。「これは極東委員会からの要求でこれに従わないことは不可能である」と。しかもこうした申し入れが我々からあったことは秘密にして欲しいということだった。安倍らは頭を抱え込んだ。

苦肉の策として、安倍らは9月25日に織田信恒に以下のような質問をして欲しいと依頼した。
「日本は武装解除しておりますから、すべてシビルではありますけれども、将来やはり総理大臣とか国務大臣は、昔みたいに軍人がなるということを避けて、シビリアンによってその地位が占められるということを確保していくのが、一つの行き方だろうと思います。」
これを受ける形で第66条第三項に、GHQ/極東委員会が望んだいわゆる文民条項が加えられた。

1946年10月1日火曜日、ニュルンベルグ裁判が結審、ドイツ元空相ゲーリングら12名に絞首刑を含む判決が出された。20世紀になって台頭した新勢力・日独伊に対する旧宗主国の制裁は、この結審を持って欧州側では一つの節目に達したと云えよう。あとはアジア側・日本への制裁だけである。
極東軍事裁判は、意外なほど梃子摺っていた。思いのほか弁護士側が善戦したからである。しかし結論が定められた裁判である。検事側と裁判長団側の連携で、弁護士側から出される証言は、不都合なものは全て却下され、裁判は進行していた。裁判長団側にもニュルンベルグ裁判の経緯を鑑みて、この裁判に「裁く側」として関与することについて不快感を表す者も出で、結審への動きはニュルンベルグ裁判以上に「報復裁判」という馬脚を見せ始めていた。

ボナー・フェラーズは、その審議を何回か傍聴席から見ていた。彼は、この裁判の行き先には興味がなかったが、11カ国戦勝国側が血祭りに夢中になってGHQの動きに口を挟んでこないことを確認するため傍聴したのだ。
マッカーサーの日本平定は、彼一人の功績である必要がある。彼は極東の解放者として米国へ凱旋し、国民に賞賛されながら大統領に就く必要がある。それが次のステージの始まりだからだ。
対日理事会事務局長に就くよう、マッカーサーから指令を受けた日も、フェラーズは午後から市谷に出かけ、2階から裁判の経緯を見つめた。
そして見つめながら考えた。・・確かに対日理事会を骨抜きにするには、私が中核に入り込むのが有効だ。・・しかし、私はそのことでGHQの裏づけを失う。そして対日理事会を骨抜きにするためには、私が無能になるしかない。愚策・誤策を重ねることしかない。・・キャリアは絶対に崩壊する。しかし・・もう・・それでいいのかもしれない。この使命を最後に、私は退役すべきなのかもしれない。
階下の茶番劇を見つめながら、ボナー・フェラーズは考えた。・・私の次の出番は、マッカーサー大統領が誕生した後だろう。彼は小さく笑った。さてさて、どうやって無能な事務局長になってやるか?それをエンジョイするべきなんだろう。

10月5日土曜日「帝国憲法改正案」は貴族院本会議に移された。そして2つの修正案が出されたあと、10月6日日曜日衆議院へ回付され、10月7日月曜日の本会議で直ちに採決された。反対は5名、うち4名が共産党だった。こうして「帝国憲法改正案」が可決した。
その可決後、吉田茂が壇上に立った。
「推うに新日本建設の大目的を達成し、この憲法の理想とするところを実現いたしまするこは、今後国民のあげての絶大なる努力に俟たなければならないのであります。政府は真に国民と一体となりこの大目的の達成に邁進いたす覚悟でございます。」これは吉田の万感の思いを込めた演説だった。
その演説を白洲次郎は、事務次官席で聞いていた。この年、3月から終戦連絡中央事務局次長に就任した白洲は、8月より経済安定本部次長を兼任していた。後に商工省・貿易庁長官に就くのだが、この時期の白洲の肩には大きく日本国民の食糧問題が乗っていたのだ。
自助努力による解決は未だ不可能だった。だからこそGHQに強い白洲へその任が託されたのであろう。たしかに白洲にとっても、この日の憲法成立は感慨無量だった。しかしそれは彼にとって既に終了した問題になっていたのだ。
会議終了後、誰にも挨拶しないまま白洲は会場を去った。
岩倉内閣書記官は会議終了後、すぐさま院内別室へ向かった。法制局次長・佐藤達夫、外務省通訳官・小畑薫、長谷川元吉が待機していたからである。 「可決しました!」三人を見ると、岩倉は開口一番言った。全員が大きくため息をもらした。 呆然としたままの3人に、佐藤が深々と頭を下げた。「お疲れ様でした。皆さまのおかげです。」
その佐藤の肩に手を置いた岩倉が、もう片手を伸ばした。その手を全員が掴んだ。強い握手だった。佐藤は目頭が熱くなった。
10月8日、全国紙が「新憲法案」衆議院で可決を伝えた。

ボナー・フェラーズ准将は、この記事を明治生命会館にある連合国対日理事会事務所で読んだ。
「失礼します!」秘書官が入室した。「ご指定いただいた記事を英文翻訳し、テレックスにてワシントンへ送りました。
「ありがとう。現物も航空荷物として送ってくれ。とりあえず全てに目を通したいだろう。彼らは。」
秘書官は敬礼すると退室した。フェラーズがテレックスで送るようにと指示した記事は、読売新聞に載った「新憲法感無量の3人男」というものだった。佐藤達夫、佐藤功、渡辺佳英の様子を伝えた記事である。・・なんだ!この記事は。ワシントンは激怒するだろうな。フェラーズはほくそ笑んだ。
当時テレックスはまだ開発途上だった。一回の送信に時間を取られる。対日理事会事務所には一台しかテレックスが置かれていなかったので、一度送信を始めると、しばらくは占有されてしまう。フェラーズは、毎日新聞記事のあと、すぐさま続けて朝日新聞の「天声人語」を送るように指示していた。そしてその後に「本記事については、何れも3ページ前面記事なので航空便で送る」というメッセージを添えるようにと言っていた。奴らは歯軋りをするだろう。・・ちなみに。ボナー・フェラーズは、この直後、アイゼンハワーの逆鱗に触れ、大佐へ降格されたのち、退官しアメリカへ戻っている。

そして、第一生命会館6階601号室、ホイットニー准将の執務室。 8日朝一番に石橋湛山大蔵相のアポイントが入っていた。本日実行予定である三井三菱本社・持株会社整理委員会への保有株譲渡について、石橋から説明したいというアポイントだった。次いで住友が16日、29日に安田が保有株の譲渡を行う予定だった。ホイットニーはその説明を受ける事前準備のため、朝早くから登庁していた。財閥解体は重要なG4の案件である。漏れが有ってはならない。ホイットニーは緊張していた。
朝、9時を少し回った頃、ドアがノックされた。入ってきたのは、ケーディスがゴードン中尉だった。
「昨日、国会で可決された我々の憲法についてですが。」ケーディスが言った。
「我々のではない。日本政府のだ。」書類から目を離さないままホイットニーが言った。
「失礼しました。日本政府の憲法です。本日、各新聞で大きく取り上げております。ゴードン中尉がとり急いで翻訳しました。」ケーディスが言った。
ゴードンが、新聞と翻訳文を手にしていた。
「わかった。あとで見る。置いといてくれ。」ホイットニーは、書類から目を離さないまま不機嫌に言った。
「・・了解しました。失礼します。」ケーディスはゴードンと共に退出した。 「もう憲法は用済みですか?」廊下に出るとゴードンが言った。
「元帥がいらなくなったものは、准将もいらないのさ。」ケーディスは肩を竦めた。
「・・素晴らしい成果物なのに。」ゴードンはボソリと言った。
「しかたないさ・・朝早くからお疲れさん。」ケーディスは、そういうと自分の執務室603号室に戻った。ゴードンはそのままエレベーター前の民政局事務室へ向かった。ドアのところにベアテ・シロタが立っていた。
「どうでした?」ベアテが目を輝かせながら言った。今日の新聞の翻訳は二人で分けて作ったのだ。 「ん。満足げだったよ。」ゴードンは言った。ベアテの努力に水を差したくなかった。
「よかったです。」ベアテは笑顔で応えた。この二人の間に恋が芽生えるには、もう少し時間が必要だった。

10月11日第90回帝国議会閉会。衆議院可決後、草案は10月19日枢密院に再諮詢され、同月29日即可決。上奏裁可を経て11月3日「日本国憲法」として公布された。施行は1947年5月3日からである。
こうして、1946年2月4日、第一生命会館6階大会議室で始まったGHQ草案作成から15ヶ月を経て、様々な人の願いと思いを込めた「日本国憲法」は、ついに日の目を見たわけである。

新憲法施行の前日、マッカーサーから吉田に国会、最高裁判所、首相官邸及び皇居の屋内外に国旗掲揚を認めるとの手紙が送られた。当時、国旗掲揚はGHQへの事前申請が必要だった。
吉田は国旗掲揚の許可について感謝を述べると共に謝意を表し、新憲法の施行は、新しい恒久平和の時代の門出を意味するものであり、この歴史的機会に国旗掲揚が認められたことは、真に民主的で平和な国民になっていくための一層の努力へと日本国民を鼓舞するものになるであろうと答えている。

その日、マッカーサーは定時に登庁し、11時半からホイットニーとのミーティングのあと、昼食を採るために米大使館へ戻り、午後から再登庁。夕方のホイットニーのミーティングのあと、20時に退庁している。まったくいつもと変わらない一日だった。
あれほど極東委員会の介入を嫌った日本国憲法設立だったが・・過ぎてしまえば民政局コートニー・ホイットニー准将へ任せた案件の一つでしかなったのだろう。彼にとって日本の新憲法制定は、大統領選に向けて組み上げられた組木細工のピースの一つでしかない。たしかに負けられない戦域だったが、結局のところそれ以上でもなくそれ以下でもない案件だったのだ。以降出される声明中に、新憲法に触れたものも幾つか有ったが、そこには思い入れらしきものは一片もないものばかりだ。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました