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新川酒飲み散歩#04

酒問屋の仲間組合が組成されたのは1675年(延宝三年)である。1978年に正式に「酒問屋寄合」と命名されて、江戸市中の酒の販売はこの組合によって独占された。
実は、江戸幕府は一部の業種を除いて座や仲間組合の組成を禁じていた。商いは自由競争で良いとしたが、実際にはこのように早くから市内に幾つもの仲間組合が内分に作られていた。元禄年間に入ると、さまざまな問屋が同業種で集まり十組問屋を組成するようになっている。酒問屋はかなり早い時期から半ば公認されていた組合だったのである。
当時(元禄年間)の記録にみると、江戸の酒問屋は七十四軒。下り酒問屋七十九人、 出店問屋四十七人計百二十六人とある。取り扱い嵩は、一樽三斗六升入りで六十四万樽だったという。
田沼意次時代、江戸は栄華を誇った。当然取り扱い酒量も増えて九十万樽から百万樽に達している。
これら問屋の大半が茅場町霊岸島新川辺に結集していたわけである。

この新川酒問屋町へ下り酒の入荷は毎年春秋二季あった。早荷競争でないときは通常約二十日かけて運ばれた。酒樽は吉野杉で作られている。この二十日間波に揺られて、酒に杉特有の香油分が溶けて交ざる。樽香が付くのだ。江戸っ子はこの香りを好んだ。そして「富士見酒」とよんだ。富士のお山を横目に見ながら海路を運ばれてきた酒だからだ。
江戸湊に入ると酒樽は小さい川舟に積かえられた。隅田川に大型船が入ることは禁じられていたからだ。こうした川舟は直参旗本の利権だった。彼らに領地はない。領地を持たない直参たちの重要な収入源でもあったのだ。
酒樽を載せた川舟は列を組んで隅田川を遡り、新川新堀の河岸に着くと夫々の酒問屋の酒倉へ横付けされた。 アイビと呼ばれた巾一尺長さ五間位の板が川舟と河岸の間に架かる。菰かぶりの酒樽は、ゴロゴロとこのアイビの上を転がされて蔵に収められて行った。この川舟がやってくると、坂問屋は赤い法被をきた男衆が十人ほど、日の丸の扇子を片手に「開き惣一番」の旗を立てて太鼓をうちながら「只今何々の番船が入りました」と市内を触れ回ったという。
その様子は「東都歳事記」などによく描かれている。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764258
新酒まつりは、まさに江戸の華だったのだ。

「ところがだな・・」日本橋のゴディバでお茶しながら、相変わらず新川酒飲み話は続いていた。
「きた・・ところがだ・・が」嫁さんが笑った。
「ん。ところがだな。明治の御代にはいると、船便は汽船の時代に入るんだ。北前船なんかもそうな。大型で船足が速くて事故の少ない汽船が運搬手段の中心になっちまうんだ。
北前船の場合、途中途中で土地の物産と物々交換をしながら北進・南進することでビジネスモデルが成立してたんだが、汽船だと圧倒的に速さが違うので、生産地と消費地をダイレクトに繋がるようになっちまった。そのため北前船は明治初期をピークとして凋落していくんだ。樽廻船もそうだった。汽船の速さと安全性、そして積載量と運賃の安さには到底太刀打ちできなかった。そのため明治も十年を過ぎるころには、あれほど雄姿を誇った樽廻船も隅田川河口から姿を消えてしまったんだよ」
「でも、新川の酒問屋は残ったんでしょ?」
「ああ、残った。でも独占ではなくなっていった。大きな理由はロジスティックが海上以外にも成立するようになったからだ。
明治二十二年に東海道線が全線開通。陸路という選択肢が産まれたんだ。新川に酒蔵をもつ必然性が無くなったんだよ。
それでも"酒は新川"だったからな、貨物ターミナルとして汐留が開業した後も、陸路で運ばれてきた酒樽は築地川を使って川舟で新川に運ばれていたんだ。酒は下り酒・・関西方面の酒ばかりじゃなくなってたからな。地廻りの酒は陸路で運ばれたんだ。
しかしそれも先の大戦まで・・戦後は全く姿を変えちまった」
「・・でも、いま帰り道にもお酒関係の企業の看板が色々あったわよね。神社の中にも酒類関係の会社の名前が並んでいる看板があったし」
「うん。もちろん。いまでも新川は酒の町だ。でもそれはシンボルとしての酒の町になってる・・と言えるんじゃないかな。あの敬神会員として並んでいる企業名をみても、今でも新川に本拠を置いているところは、ほんの少しだ。」
「・・なるほどねぇ」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました