見出し画像

小説特殊慰安施設協会#13/1-3特殊慰安施設協会

土日と降り続いた雨も日曜の早朝には上がった。雲一つない晴天になった。気温も20度少し上回るくらいで、気持ちの良い朝だった。小美世は目を覚ますと簡単に身支度をして、静かに階段を降りた。そして台所の土間で洗濯を始めた。その小美世の鼻歌が窓の外から聞こえて、千鶴子も目を覚ました。
階段を降りながら千鶴子が小声で言った。
「おはようございます。」
「あぁおはよう。ごめんねぇ、また起こしちゃったねぇ。いや、あんまり天気が良いから早いうちに洗濯終わらしちゃおうと思ってね」
金盥に洗濯板で洗濯する小美世の横に積まれた洗い終わった洗濯物を抱えながら千鶴子が言った。
「これもう干していいですか?」
「あ。おねがいね。」
千鶴子は洗濯物を抱えて二階の物干場へ出た。朝日がまだ眩しかった。風が少し強い。その風の中に、まだ埃が燃えた後のような臭いが付きまとっている。この臭いには慣れない。洗濯物の皺をとりながら、千鶴子はそう思った。

小美世の家の物干し場は築地川を向いている。目の前に川面が見える。すぐそばの三吉橋の向こうに、煤けたままの区役所と警察署がある。どちらも再三の空襲を受けながらも機能していた。

戦災届けねぇ。洗濯物を干しながら千鶴子は思った。結婚して籍を竜造寺家に移した私が、萬田の家の届けを出せるのかしら?そう思ったとき、竜造寺の家のことをまるで遠い昔の話のように考えている自分に、千鶴子はびっくりした。飛び出してきてまだ三日しか経っていないのに。

戦争が終わって大きく世の中が変わろうとしてる。私も変わる。だから絶対にあそこへ帰ることはない。きっと、帰らなければならないようなことは起きない、と思っているからだ。千鶴子はそう思った。

いつものように、ゲンが支度した朝餉を三人で囲んでいるとき、小美世が言いだした。
「ゲン、あんたをチヅちゃんの会社に紹介してくれた方。新橋のヤミ市に出てるんだろ?」
「ああ」ゲンは箸を休めずに言った。
「今日は天気が良いから、買い物がてらに新橋へ出て、その方にご挨拶しに行こうかね」
「そんなことしたら向こうが魂消ちまうよ。」
「何にもお礼に差し上げるものはないけどね。その方の売ってるものを何か買わせていただこうよ。なに売ってるんだい?」
「そこらへんの焼け跡で拾ってきたもンさ」
「拾ってきたもの?ふうん。ま、何でもいいよ。お礼のつもりで買わせていただこうよ。そうそう、千鶴子さんも、ね? 一緒にお行き」
「はい。」千鶴子は突然自分に話を振られたのでびっくりした。
「いつまでもアタシのお古の下穿きもないだろうからね。何か見に行ってみようじゃないの」
「ありがとうございます。・・でも」千鶴子は口ごもった。
「大丈夫よ。お給金が出るまでアタシが建て替えとくからね。気にしないで」
「申し訳ありません。何かに何まで」千鶴子は深々と頭を下げた。

食事の後片付けもゲンの仕事だ。洗い物は千鶴子が手伝いをした。小美世は橋台の前に座って髪を直していた。
支度が整って三人で家を出ると、そのまま築地川沿いに歩いた。
「良い陽気だねぇ。良い日曜日だねぇ。」小美世が言った。「日曜日だからって、何があるわけじゃないけどさ、空襲にビクビクしなくていい日がこうやって来るなんて、ほんとに嘘みたいだよ。」
 小美世が先頭になって、三人は晴海通りを渡ってもそのまま築地川沿いに歩いた。そして新橋演舞場の前を通って京橋第二小学校にぶつかるまで真っすぐに歩いた。

「歌舞伎座が燃えて、演舞場が燃えて、この辺のお茶屋さんもみんな燃えちまって、ィヤでもカンでも、何もかも仕切り直しだねぇ。どんな時代が来るんだろうねぇ」半壊している新橋演舞場を見ながら小美世が言った。
 木挽町は晴海通りを渡ると、大きな黒塀の料亭と小さな飲食店が集まる町になる。東京大空襲はこの町を灰燼にした。それでも晴海通りを渡ると、崩れ果てていても三業地の面影は残っていた。小美世はそんな面影を見たくて、この道を選んだのだ。
「どんな時代が来ても、習いたい奴はいるさ」ゲンがぼそりと言った。
「そうだね、お座敷がかかるようになれば、お習いしたい子は出てくるわね」
そういう小美世の声が、いつになく心細げに聞こえた。千鶴子は胸がキュッとした。とても当たり前なことに気が付かなかった自分が情けなかった。小美世の家に収入はない。蓄えを使っているだけなのだ。
「おや見てごらん。朝顔だよ」小美世が指さした。
燃え崩れた大きな料亭の軒先に朝顔が咲いていた。
「元気だねぇ。秋がもうすぐ来るのが判ってても一所懸命咲いてるよ。
わけりゃ♪二つの朝顔なれど♪一つにからんで花が咲くぅ♪ってね。
佳い唄があるもンだ。」 

画像1


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました