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堀留日本橋まぼろし散歩#21/日本橋・元吉原#02

「廓として開業したのは元和4年(1618)の12月だ。葭原と呼んだ。裏を流れていた浜町川から水を引いて堀で囲った」
「吉原じゃなかったの?」
「吉原と改名したのは8年後の寛永3年(1626)だ。中で、京町は麹町で遊郭を開いていた京都六条からの廓14軒が店を開いた。京町2丁目は新しく関西から流れてきた者たちが店を出した。だから新町と呼ばれたそうだ。江戸町は神田鎌倉河岸・元誓願寺町にあった14軒が入った。遅れて出来た角町は、庄司甚右衛門に協力しなかった廓が入った。それが幾つかの町名に分かれている理由だ。この町名はそのまま浅草の新吉原にも採用されている」
僕らは末廣神社の前にいた。
「この神社の前の通りが南の堀が有ったところだ。吉原の中に「稲荷祠」があった。それがこの末廣神社の原型だ。南の堀は金座通りの向こう側2本目あたりにあった。入り口は大門通りに有った一か所だけ。東のヘリがいまの久松小学校があるあたり。浜町川はご多分に漏れず、戦災の時に出た瓦礫で埋められて無くなった。その一部が浜町緑道になってる」
末廣神社のご由緒にこうある。
「当社の創祀は明らかではありませんが、古文書によると、
慶長元年には「稲荷祠」として現在の境内地辺りに鎮座しておりました。

明暦の大火で吉原が移転してからは、
その跡地の難波町・住吉町・高砂町・新泉町の
四ヶ所の氏神として信仰されてきました。

社号の起源は、延宝三年社殿修復の際
年経た中啓(扇)が発見されたことを、氏子の人達が悦び祝って
末廣の二字を冠したものです。」


金座通りへ出て、江戸橋へ向かって歩いた。
「小舟町と人形町の間には日本橋川の支流/堀留川が有ったんだ。ここに思案橋・わだくれ橋・親父橋なんて橋を架けて元吉原へ来やすくしたのは庄司甚右衛門だ。堀が全部無くなって、橋も全部なくなっちゃった。親父橋はね、親父と呼ばれて皆から慕われていた庄司甚右衛門が作った橋だから、そう呼ばれているそうだ。この辺りは、日本橋で働く人夫なんぞの口入屋が並んでいたそうだ」
「そういう人たちも吉原のおきゃくさんになったのね」
「いやいや、そうはいかない。ざっかけない場所なったのは暫らく経ってからで、利用客は大名/高級旗本/高級陪臣ばかりだった。
営業も昼間だ。暮れ六つの鐘で大門を閉めたとある。中引け大引けなんぞが出来て謂わば昼夜営業になるのは浅草に移ってからだ。庶民が少し背伸びすれば通えるようになるのはアッチへ移ってからだ。だからね、庶民相手の売春屋は彼処に有った。街道筋に並ぶ宿屋には飯盛り女が居たしね。町の銭湯にも『垢かき女/湯女』がいた。奉行所はこれらを摘発すると女たちを吉原送りにしたんだ」
「え~、だってお金持ち相手の所だったんでしょ?」
「ん、それがなし崩し的に壊れ始めて、娼伎が増えたことも有って吉原を浅草千束村へ移転するように命じたんだ。明暦2年(1656)だ。移転が決定的になったのは明暦の大火のせいさ。この辺りは燃え尽きたんだ。明暦3年1月18日から20日だ。西暦で言うと1657年3月2日から4日だ。相当の死傷者が出た」
「まえ言ってた振袖火事ね」
「ん。しかしそれが、なし崩しに積み木のように作られていた江戸の町を大幅に整備するきっかけになったんだ。元吉原が浅草へ移転したのは火事の騒ぎが収まってすぐの6月だ。新吉原の整備が終わるまでは今戸/鳥越/三谷の百姓家を借りて営業したんだよ。移転が終了し開業したのは、その年の8月からだ」
「吉原が無くなった跡はどうしたの?」
「もともと人形町は繊維問屋の多い所だったから、これが拡張されていったんだが、同時に近くに芝居小屋が出来始めてたからな。それの控えとして遊興地は残った。役者と遊ぶ非公然の岡場所として残ったんだ」
「なにそれ?結局は売春地帯として残ったのね」
「ああ、陰間茶屋と言ってな。娼伎は女性ではなく若い男になった」
嫁さんが凍り付いた。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました