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一時間でわかるフランスワイン2000年の歴史/第五巻: ローヌ編 しゃべりたくなるワインの話 Kindle版

民族移動の回廊だったローヌ渓谷に暮すアロブロゲス族は、紀元前5世紀ごろから錫を求めて峠を越えてくるローマ人の影響を受けて急速にローマ化した。混血も繰り返されて、特異なガロ・ロマンと呼ばれる文化を花開かせた。このアロブロゲス族だが、ローヌ渓谷からジュネーブ、ウイーンまで広がる人々で、山の民らしい独立独歩の気質が高い人々だった。
同時期に同じくローマ化されたボルドー地区と比べてみると、その気質の差は明確だ。ボルドーに暮していた人々は、カエサルのガリア侵攻を然したる抵抗もなく受け入れた。むしろ歓迎した。しかしローヌ渓谷周辺の北のケルト人は強く抵抗した。同じくカエサル到来以前よりガロロマン化していたのにも関わらずである。
カエサルは、ソーヌ川中央のガリア人から「要請を受けた」という名目でローヌ川を北上しガリアの地へ侵攻したのだが、実体としては自立自尊するガリア人たちを最新技術を背景とした武力によって制圧したのである。
アロプロゲス族は、本性の部分で"奉ろわぬ民"だったようだ。
ちなみにハンニバルの巨象軍団がアルプスの峠越えをしてローマに侵攻した時、峠で彼らの先頭に立ったのはアロプロゲス族だった。ローマにとって、アロブロゲス族は手強い厄介な被支配民族だったに違いない。
そのアロブロゲス族が、ローマに対して圧倒的に優位な「素材」を持っていた。それは寒冷耐用種の葡萄である。ローマ人の葡萄は、アルプスを越えて育たない。それどころからアルプスにぶっかって反転し、地中海沿岸に吹き荒むミストラル(北風)の中でも、地中海海岸部でも、温暖種の葡萄の木が冬を越すのは至難だった。
しかしアロブロゲス族の葡萄/アロブロジカ種(後代シラーと呼ばれるようになる品種)は可能だった。これは圧倒的な優位点である。なのでローマは、恭順の意思があるアロプロゲス族については、自分たちの手でワイン製造することを認めていた。もちろんローマが認めた生産者の大半は、ガリア・ロマーナ(ガリア人とローマ人の混血)である。

ワインは交易のための貨幣だった。製造はローマ人が独占し、そのノウハウの流失は徹底的に塞がれていた。ガリア人(ケルト人)が、ローマ属州の中で自らワインを作ることは厳しく禁止されていた。しかしアロブロゲス族(のガリア・ローマナ)だけはこのルールから外されたのである。
アルプスを越えた以北で育つ葡萄は、彼らのモノだけだったからだ。
ローマ人は、ローヌ川を北上し交易の場を大きくする過程で、貨幣であるワインの製造をローヌ川周辺で行おうとした。それまではポー平原あたりで作られたワインをアンフォラ(陶器)に入れて運んでいたのだが、あまりにもコストがかかるので、交易地に近く水路を利用して簡単に運べる地域で、ワインの製造を試みようとしたのだ。
しかしこの地区は、前述した厳しい北風(ミストラル)に晒される。ローマ人が持つ温暖種を育てるのは難しい。なのでローマは、ローマ渓谷一帯に広く広がっていたアロプロゲス族を此処に呼んだ。そして彼らがローヌ川東岸に定着し葡萄を植えることを許した。
後代シラーと呼ばれる品種は、こうしてローヌ川へ辿りついた。
おそらくだが、その葡萄をシラーと呼んだのは彼らアロブロゲス族自身だろう。葡萄は出自をそのまま名前にされるものが多い。同じ葡萄をローマ人はアロブロジカと呼んでいるが、これも「アロブロゲスの葡萄」という意味である。アロプロゲス族がその葡萄を「シラー」と呼んだのは、まちがいなく彼らが遥か東の小アジア黒海南岸(シラン地区)から携えてきた品種だったからに違いない。その記憶がそのまま後代まで伝わったのだと僕は思う。
シラーは、ローマ勢力が北上すると共にローヌ川を北上した。アロプロゲス族の手から解き放たれて、ローヌ川両岸にワインを作るための葡萄畑が大きく広く出来上がっていくのには200年を要しなかった。その過程で、錫は主たる交易物で無くなって行ったが、ワインは貨幣として、各地でそのまま定着していったのである。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました