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葛西城東まぼろし散歩#19/江戸より古い下総06

国府は、近畿に発生した中央政権が各地においた統治拠点だった。軍事・政治・そして宗教がセットにされていた。
総の国が、安房・上総・下房に三割されたのは、中央に広大な香取の海を孕み一つのクニとして管理し難かったからに違いない。総(ふさ)は麻の国であるとともに、常磐・東北地方からの水利によるロジスティックルートのハブで、無数のクニが同地に繋がっていた。日本のベニスともいえる地だったのだ。
下総は江戸湊を向いた小魚を追う漁業、製塩そして幾つもの牧が並ぶ地だった。馬牧がどのような経緯を辿って下総に届いたのかはいまひとつ判らない。おそらく武蔵台地から下総に持ち込まれたのかもしれない。香取の海を目指して近畿から船によって運ばれたとは思えないからだ。
・・馬牧を営んだのはノウハウをもつ渡来人だった。下総が早くから中央より香取の海を目指して多くの渡来人が来ている。下総と馬牧は、その意味でも親和性が高かったのかもしれない。

実は・・余談だが・・馬牧を営む者から「武士」は生まれた。武装した農民から生まれたとするのは無理がある。ちなみに武装した農民は全国各地に生まれたが、武士と言える形状になったのは関東地方だけだった。関東で力を持った馬牧だけが⇒平氏・武士になっていった、という話はそのうちしたい。

下総に中央政権が陸路による制覇ルートを置いた大きな理由は、彼らが馬牧を能くしたからにちがいないと僕は思う。
武蔵国が東山道から東海道へ改編されたのは、下総を相模夷参駅(現・座間あたり)と繋ぎ、浜田駅(現・厚木あたり)を繋ぐのが目的だろう。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました