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ボルドーれきし ものがたり/2-5 "ボルドーの地政的価値"

当初、ローマはボルドー/ブルディーガラの建造について、まったく注目しませんでした。どう考えても地政学的に意義が持てる場所ではなかったからです。

ガロンヌ川とドルドーニュ川によって下流から運ばれる膨大な土砂は、この地を限りなく広い泥の沼沢地にしていましたし、潮の満ち引きと降水の量によって川幅は極端に変わり、低地はしばしば泥水の中に沈んでしまいます。沈まないのはポツポツと点在する高台/丘だけ。アキテーヌ盆地の低所は、そんな地域です。とても町を作るような所ではない。

その丘のひとつに、何かのきっかけでケルト人(ガリア人)とナルボンシスから陸路でやってくる商人たちの交易所が出来た。それがブルディーガラです。 その交易所を最初に望んだのは、間違いなくナルボンシスの商人/豪農たちです。

彼らは、イベリア半島でローマ兵として戦った人々です。報償として、土地と市民権をローマからもらった人々です。だから殆どがラテン人ではなく異民族(多くがガリア人/ゲルマン人)でした。彼らがナルボンシスに耐寒冷品種の葡萄をイベリアから持ち込み、これを植えた。目的は遥か北方のケルト人との錫貿易のためです。

そんな彼らが作ったワインは、ローマから来た商人たちに幾ばくかの金で買われ、ローマの商人たちはこれを船に載せて、地中海を西へ進み大西洋へ出て、ブリテン島/ブルターニュへ運んでいました。この交易はローマの商人たちに膨大な利益をもたらしていました。

そんな大儲けをナルボンシスの商人/豪農たちがいつまでも指を加えて見逃して見ている訳もなく、独自ルートを陸路に求めたのは当然のことです。
こうしてジロンド川の河口にある高台/丘に作られた交易所のひとつがボルドー/ブルディーガラだったというわけです。もし、もう少し河口に近い所に・・現在のメドックle Medoc左岸か、あるいはレ・シャラーント右岸地方に交易船が引き込める支流をもった高台/丘が在ったら・・おそらく今のボルドーは生まれなかったにちがいない・・と僕は思います。

最初のボルドー/ブルディーガラは、碁盤の目状に作られた全くの人工都市でした。川から支流が引かれ、交易船は此処に入り其々のドックに収まり、積載されていた荷物/ワイン・錫は其々の倉庫に収まり、これらが交易所で取引された。そして取引が終わると、再度其々の船に載せられ、ケルト人の船は川を下り大西洋へ。そしてナルボンシスの商人たちの船はガロンヌ川を遡っていったのです。

その膨大に水量のガロンヌ川ですが、実はあまりにも川幅が広く上流に行くと狭くなるので、大潮の時は逆流現象が起きます。所謂アマゾン川で謂う所のポロロッカ現象ですね。アレが起きる。川は相当奥深い・・トゥールーズあたりまで逆流するのです。逆流は、満月の大潮と新月の大潮に起きます。その月2回の数時間を利用して、ナルボンシスの商人たちは隊列を組んでガロンヌ川を遡上しました。

たしかにこの壮大な水運隊商のもたらす利益によって、全くの人工都市ボルドー/ブルディーガラは改良改善され、巨大都市へ変貌していくのですが、陸路については・・左岸右岸を結ぶ橋でさえ1811年にル・ポン・ド・ピエールle Pont dePierre橋が架けられるまで存在しなかったのです。パリ・ボルドー間に鉄道が引かれたのも1852年です。如何にこの広大な沼地が、この街を陸の孤島にしていたか窺い知れますね。水路以外この街に寄与するルートは殆どなかったのです。

たとえば・・再三書いているローマの御世から利用された地中海/大西洋を繋いだ陸路ですが、この道に水運のための運河/ミディ運河le Canal du Midiが建造されたのは1839年からです。開通は59年だった。設営の話は1600年代から有ったのですが、現実化するには200年が必要でした。また、ポロロッカ(川の逆流)が届く限界点カステアン・ドルトCastets-en-Dortheからトゥールーズ Toulouseまでのガロンヌ川に沿って作られているガロンヌ運河le Canal Laterala la Garonneも同年代に開通しています。

しかしこうしたある種"陸の孤島化"がボルドーの文化の独自性/自尊心をもたらしたのかも知れない・・僕はそう思ってしまいます。ボルドー市の産業/生計は現在でも相変わらず輸出入・貿易です。そしてその素材は、一時は砂糖に変わったこともありますが、2000年来変わらずワインです。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました