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熊野結縁#09/熊野新宮の名の御由緒について

熊野速玉大社には、とても強いご縁を感じる。じつは今回、到着の翌日に弊社櫻井と共に参拝御祈祷いただく予定を立てていた。いつもの癖で、必ず大事なことは事前におさらいしておく。なので、新宮に到着してすぐにお社に伺ったのだが、境内で偶々いらした上野宮司さまとお会いしたのである。びっくりした。
実は数日前に、来京された上野宮司さまがわざわざ銀座の当店へいらしていたのです。その時も、偶々宮司さまの御夫君が編纂された書を、ノートを取りながら読ませていただいた所だった。あのときもびっくりして、思わず本に宮司さまの筆を頂いた。不思議なご縁の繋がりを感じてしまう。
そんな話を、我々に遅れて12時間、深夜に新宮のホテルへ入った櫻井とした。雨はまだ止まない。

駅前に 始まる古道 路濡るる

新宮は、櫻井も我々は夫婦も初めての訪問だった。
町は熊野川に自然と生まれたものに違いない。おそらく2000年の歴史を持つ、日本国より古い町なことは違いないだろう。
その熊野川の悠々たる流れを僕らはJRの車上から見た。
紀伊は、海にそそぐ川に付き添う平地が少ない所だ。山はそのまま海に出会い、崩れ落ちるように断ち切れる。人の営みが難しい地である。しかし穏やかな気候と、しめやかな地祇がこの地を早くから人々が集うところにしたに違いない。おそらくは殆どが隼人の民だったのだろ。
それを思わせるのは、奈良から始まる官道が東西・北に走っても、南に降りたものがなかったからだ。
明日香の古寺を歩いているときにそう思った。国府を繋ぐ道は紀ノ國を抜けて淡路から四国へ向かう。もしかすると、空海に高野山が嵯峨天皇より賜るまで、熊野は国の境の外にあったのではないか・・とまで考えてしまう。空海は四国・讃岐国の人だ。彼が高野山を望んだのは極めて深慮の末だったと思う。
・・いずれ空海という渡来人の裔の話をしよう。

さて「熊野新宮の名の御由緒について」現・熊野速玉大社宮司上野様の御父君が書かれた一文(熊野三山信仰事典)がある。それを引用したい。

 熊野速玉大社は、熊野三山のひとつとして、「熊野新宮」とも称され、全国の熊野信仰の中心です。
 神代の頃、熊野三山の中心となる早玉(当社御主神である熊野速玉大神」・結(熊野夫須美大神)・家津美御子(素盞嗚尊)の三柱の神々は、まず、神倉山(新宮市西南)に降臨されました。現在も、神倉山山頂には当社の摂社・神倉神社が祀られています。参道には源頼朝の寄進による。五百三十八段もの急勾配の石段があり、山上にはゴトビキ岩と呼ばれる巨岩が鎮座しています。このゴトビキ岩が、神々の御神体です。
 『日本書紀』によると、現在の新宮市付近は「熊野神邑」と呼ばれていました。熊野神邑とは、「熊野神の祀られている里」という意味と思われよす。中でも神倉山は、高倉下命が神武天皇東征の際、夢告により霊(ふつのみたま)という神剣を天皇に奉った場所と記され、古代より聖地として、人々の信仰を集めていたことがわかりよす。ゴトビキ岩の下からは弥生時代の銅鐸が出土しており、考古学的にも重要な場所として注目されています。
 熊野三所大神は、景行天皇五十八(128)年に、降臨の地である神倉山から、現在の鎮座地に新しく境内・社殿をつくって遷られました。そこで旧宮である神倉山に対して、熊野速玉大社を「新宮」と称するようになり、現在も「熊野新宮」と呼ばれて、人々に親しまれているのです。
 『熊野権現垂跡縁起』等の記述によると、当初は現在のような十二社殿の御社頭ではなく、早玉(速玉)・結(夫須美)、家津美御子命を二社殿に奉斎していたようです。速玉は伊弉諾尊の映え輝く神霊を称えた御名、また夫須美は産霊の神、すなわぢ万物を育成し給う広大な御神徳を称えた御名で、伊弉册命尊の別名といわれるところから、二神を御夫婦神として一社に、もう一社に家津美御子神をお祀り申し上げたものでしょう。
 現在仰ぎ見る十二社殿の形態は平安初期に整い、熊野十二社大権現として人々の尊崇を集めました。式内大社として正一位を授けられ、孝謙天皇より「日本第一大霊験所」の勅額を賜った社でもあります。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました