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ボルドーれきし ものがたり/2-1"ノールーズ峠"

第二章/ガロロマン時代 2-1 "ノールーズ峠"
ローマ人は現在のボルドーをブルディーガラBurdigalaと呼んでいました。なので彼らの時代の話をする間は、この名前で呼びたいと思います。
そのブルディーガラの南西部に、ローマは属州を持っていました。此処をローマはアキタニアAquitaniと呼んでいます。この地域に暮しているのがアキタニア人です。現バスク人の始祖とも云える人々です。
彼らは純粋なガリア人ではなくイベリア(現スペイン)が混血した人々であるとローマ人はみていました。(これは不確かな見解で・・むしろ新石器時代から先住民のように思えます。)言語的にも印欧語ではないアクテリアン語を使用している民です。
たしかに彼ら自身も北方のケルト人とは同族意識が薄く「我々は別族」と考えていたフシがある。
早くからアキタニア人がローマ化した理由は、おそらくこれですね。なのでアキタニア人は、ローマとガリア人の間に立つ第三勢力として、ガリアに対しては客体的な関与に終始しました。
これがローヌ川に先だって確立した"ローマ=ガリア/ワイン=錫"交易ルートとの際立った違いです。ローヌ川交易ルートではプロヴァンス地域であっても、ローマの交易相手はダイレクトにガリア人であり、第三勢力は存在しませんでした。

ローマが錫をガリア人から手に入れる主たるルートは二つ。①ローヌ川ルートと②大西洋ルートです。
前回書いたように、ローマの手に大西洋岸の交易都市カディスが落ちたことで、ローマは新しい錫を手に入れるルートを得ました。主たる航路はマルセイユとカディスを繋ぐものだった。ローマ商人は、イタリア中央部で作られたワインを、アンフォラ(陶器)に詰めて、海路でマルセイユに運び、ここからジブラルタル海峡を越えてカディスへ運びました。そして遥か北のブリテン島/ブルターニュに届けられたのです。
海路は困難で事故に満ちていた。しかしそれを越えても尚、ワイン=錫の交易は利が厚く、リスクに見合うものだったのです。
ところが、このイベリア半島での戦いに参加した兵士たちへ、ローマが恩賞としてマルセイユ西/ナルボンヌの広大な土地を分与したことが、思いがけなく大きな変革をもたらしました。兵士たちが此処で、挙って葡萄を育てたのです。目的は、もちろん錫との交易です。品種はイベリア半島から持ち込まれた寒冷耐用種でした。

前述したように、交易用のワインはイタリア半島中心部からアンフォラ(陶器)に詰められて運ばれていました。しかしあまりにも遠距離なので破損などの事故が多く、きわめて歩留まりは悪かったのです。ナルボンヌで兵士たちが開墾した葡萄畑から作られるワインは、この"距離"という問題を一挙に解決してしまったのです。
カディスに運ばれて、ガリア人との交易に利用されるワインは、急速にナルボンヌ製のワインへ変わってしまいました。
・・ナルボンヌの元兵士だった農民たちは大きな富を手に入れるようになりました。 となると、もっと利が欲しいと思うのは人の常です。
彼らは、海路ではなく陸路でイベリア半島を迂回せずに大西洋側にワインを模索し始めた。

幸いなことに、同地は大西洋と地中海を繋ぐ最も狭い陸峡でした。地中海側からノールーズ峠Le sseuil de Naurouzeを抜けてピレネーの山越えをすれば、すぐにガロンヌ川が有ります。アキタニア人が「ガロンナ/川(Garumna)」と呼んでいた川です。東京の人が隅田川を、ただ単に「大きな川」なので"大川"と呼ぶのと同じです。なにも特別な呼称を付ける必要がないほど偉大な流れだったに違いありません。そしてこの川筋が遥か北で大西洋に注いでいることをアキタニア人は知っていました。
ナルボンヌの農民/商人は、このルートでワインの独自搬送を目指したのです。 ナルボンヌからトゥールーズまで峠越えをして、そこから水路で運べば、大西洋までは一挙です。 そしてそのルートでの陸送を担ったのが、同地に暮す前述アキタニア人だったのです。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました