見出し画像

黒海の記憶#46/形骸化するビザンチンによる支配#02

折り重なる内部矛盾によって半壊したローマ。首都ローマさえ失ってしまったローマ。ローマ人が闊歩しないローマ。そして、その身を守るため黒海周辺に台頭した国家/民族へ阿るしか生きる道が無くなったローマ。
ローマにとって、黒海北海岸は安定したマーケット/ローマのものなら何でも買ってくれて、ローマが必要にものは何でも売ってくれる連中。そしてはるか北の蛮族との間の緩衝材となる連中・・という便利な輩ではなくなっていた。
いつのまにやら・・貢物はローマが周辺国から受け取るものではなく、ローマが周辺国へ配るものと変わっていたのだ。

なぜ、そんな反転が起きたのか?ステップの騎馬半農民族を駆逐できないほど、ローマは失速したのか。そうは思えない。ひとつの・・大きな理由は、黒海北海岸がローマの持てる力すべての投下してまでも、奉ろわぬ連中を一掃して交易ルートを死守する必然性が希薄になっていたからに違いない。当時すでにギリシャ人たちが開拓していたレバント海岸への交易ルートは、ローマ人に引き継がれており、東方と繋がる通商ルートが確立していたからである。確かに黒海北海岸は重要だがマストではない・・ということだ。実は、こうしたローマらしからぬ姿勢が、東ローマ帝国/ビザンチンを、よりローマらしからぬものにしていたのだと僕は思うのだ。その証拠にビザンツ人からは、滅びの時までただ一人として闘将とも呼ぶべき王は出ていない。
つまり、ビザンツ人にとって、黒海方海岸は他者に簒奪されないなら、それ以上のものは望まない・・地と化していたのである。

こうした事なかれ/守りの姿勢が、結果として黒海北西部にブルガリア人の台頭をもたらしていく。停滞する者は自ずから時流からはじき出されていくものなのだ。次第にビザンツ人を脅かしていくブルガリア人の始祖は黒海北西部に定住した所謂南スラブ人だった。確かに奉ろわぬ民だったが統制できない人々ではなかったはずだ。その彼らが北の回廊を抜けてバルカン北部に入ると、地元トラキア人と融合することで大きな勢力をもつようになった。トラキア人は長くローマに逆らい続けた人々だ。彼らとの相性はよかったのかもしれない。これにテュルク系のブルガール人が重なった。AC600年代になると"ブルガリア人"と呼べる集団に纏まると共に、彼らは強い武力と経済力を持って次第に南下し、最終的に東ローマ帝国/ビザンチンと交戦。バルカン半島の北部分の大半を東ローマ帝国/ビザンチンから奪い取ってしまった。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました