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深川佐賀町貸し蔵散歩#03

「神田の山を切り崩して日比谷入り江を埋めたり、干拓開墾を重ねて、江戸湊がちっとずつ人の住めるとこになってくと、隅田川の向こう下総もだんだん開墾の話が出てくるようになったんだ。新川歩きの時に話したように、家康さんは「塩の道」の確保を最初に行った。行徳から小名木川を通って新川新堀を通るロジスティックルートを整備したんだ。それに肩を揃えて「新田」を求めた干拓開墾があっちこっちで同時並行的に進んだんだ。でも平地だからな、水田やるための水利の確保が至難だ。傾斜が無ければ水は流れない。そのために色々な工夫はされたんだが、まあしかし水田というより畑の方が手っ取り早かったに違いない。
それに畑で出来た作物は米と違って自分たちで販売できて現金収入になったしな。最初は課税対象にもなっていなかった」
「自由だったの?」
「ああ、前にも言ったが江戸時代は。コメ以外の産業は極めて自由だった。後半になればなるほど厳しくはなったが・・
この辺りも、深川に継いでかなり早い時期から開墾がお上に申しだされたとこだ」
「お上に?幕府がやったんじゃないの?」
「ああ、主幹なモノだけがmade im 幕府だ。あとは民活だ。佐賀町はポツポツと大地の部分があった。そこに零細な漁師村が点在していた地域だ。中で大きかったのは後に永代橋が架かって深川と新川辺りを結ぶことになる深川相川町だ。いまの「永代」あたりな。そこの町名主は代々相川新兵衛を名乗った旧家だ。そこが家禄として「寛永録」というのを伝えてきた。

ここに地元の漁師たちが『潮除堤外の干潟の場所を町場に取り立てさせてほしい』という申し入れをしたとある。その申し入れた中のふたり、藤左衛門・次郎兵衛が作った町が合併して出来上がったのが佐賀町だ。他にも6人の申し入れをした連中がいて、幾つかの町がこの辺りに出来上がった。1630年ころの話だ。ところがとんでもないことが起きる。」
「なに?}
「振袖火事だ。」
「あ、前に小石川を歩いていた時に話していた八百屋お七の火事ね」
「ん。1641年寛永18年だ。開発されたばかりの江戸の大半が焼けてしまう大火事だった。江戸はもともと江戸湊の水っ溜まりにでっち上げた街だったけどな。利根川と荒川を、家康さんがトロ払いしちまったもんだから、慢性的に水分不足に悩まされる地域になっちまってたんだ。そこに関東の空っ風だからな。火の手はアッという間に広がったんだよ」
「ずいぶん、人も亡くなったのよね」
「ああ、それで幕府は考えた。火事に耐えうる町にしようとな。そこで寺社と武家屋敷を集中させないで分散させる方法を採ったんだ。霊厳寺みたいにな。かなり大幅に配置換えと拡散を実行したんだ」
「それで深川ね」
「ああ、隅田川の向こう下総側が近郊地として大幅に開発されたんだよ。特に材木など資材置き場な。材木置場は日本橋通町筋や東側の材木町や、神田佐久間町河岸にあった。あの火事は日本橋桶町(八重洲付近)あたりから始まって材木置き場がデカいキャンプファイアーになって、それが江戸全体にひろがったんだ。こいつは良くないってぇわけで、隅田川東岸の佐賀町にこれを強制移転させたんだ。それで材木置き場の周囲に、かなり広い運搬用を兼ねた水路を作った。これが仙台 堀・中之堀・油堀だ。町の名前が正式に佐賀町となったのは1965年(元禄8年)だ」
「それまでは何て言ったの?」
「さっき言ったじゃん、深川藤左衛門町・深川次郎兵衛町ってたんだ」
「言ってないわよ。藤左衛門・次郎兵衛が幕府に申し入れたってことだけよ。でもなぜ佐賀町という名前になったの・佐賀藩のお屋敷が移転してきたの?
「というわけではない。『町方録』を見ると「肥前国佐賀之湊ニ形チ似寄候』とある。九州佐賀の湊に地形が似ていたというからには、その関係者が何らかの形で関与してたんだろうな」

「で。永代橋だ。架設されたのは1698年(元禄11年)だ。翌年に周辺地は片っ端に御用地にされちまう。漁師町が一変して隅田川を利用した一大ロジスティックステーションになっちまうんだ。だから佐賀町の材木置き場もじゃまになってな。もっと奥地の木場に移転させられた。そして各種商いの問屋が隅田川沿いに蔵を並べるようになったんだよ」
「なるほどねぇ。その街並みが深川江戸資料館で見た町並みなのねぇ。あれ見ただけじゃ、なぜあそこに佐賀町の街並みが再現されてるのか全然いみが判らなかったけど・・そういうわけだったの」
「ああ、日本橋でも京橋でもない。佐賀町の蔵の町としてのアイデンティティだ」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました