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小説特殊慰安施設協会#14/1-3特殊慰安施設協会

汐留川を蓬莱橋から渡って、汐留の操車場の横を抜けて第一国道を渡ると、外食券食堂の前に出来ている長い列にぶつかった。その列に沿って、幾つもの物売りが蓆を敷いて商売をしている。そして、その露商を目当てにすごい人混みが出来ていた。
「すごい人だねぇ。ここがヤミ市かい?」小美世が言った。
「ああ、この辺からなんだけど、駅前の広場にあるヤミ市のほうがデカい。」ゲンが言った。「通り、渡ろう。」
「はいよ。」

新橋の駅前は類焼を避けるために殆どの建物が撤去されていた。それは西口も東口も同じだったが、銀座口側昭和通り沿いに有る二軒の外食券食堂に並ぶ列を目当てに、闇で食券や物品を売る連中が現れると、今度はそれだけを目当てに来る人が来るようになって、いつのまにか東口に大きな露店のフリーマーケットが生まれていた。

売り手は、路上に呉座や風呂敷を敷いて品物を並べたり、カバンの中に詰められたものを客に見せたり、手にした食券を立ちんぼで売っている。雑多にあらゆるものが有った。買い手がその売り物の周りに蟻のように群がっている。
「すごいね、これじゃ欲しいものを探すの大変だわねぇ」小美世が言った。「ゲン、あんたがお世話になった方のお店は何処なんだい?」
「判んねえ。みんなテンデンバラバラ勝手に店広げてるらしいから、毎日同ンなじ場所ってわけにはいかないんだろう。」
「探しにお行きよ。アタシとチヅちゃんは此処で待ってるから」
「はいよ」と言うと、ゲンは人混みの中に姿を消した。小美世は明治製菓の前から銀座口へ通りを渡って、ゲンが戻ってくるのを待った。

戦後、主要な山手線駅前に発生したヤミ市は、瞬く間に急成長していた。仕切ったのはどこも地場のヤクザたちだった。中でも大きなものは、尾津組が仕切った新宿東口のマーケットである。尾津組は「光は新宿より」というスローガンで、以下のような広告を8月26日の朝日新聞に載せている。 


《転換工場並びに企業宛に急告!
平和産業の転換は勿論、其の出来上がり製品は当方自発の”適正価格”で大量引き受けに応ず、希望者は見本及び工場原価見積書を持参至急来談あれ
淀橋区角筈一の八五四(瓜生邸跡)新宿マーケット  
関東尾津組》

いずれも屋台の飲食を中心に、軒を並べる仮設店舗だった。四方に柱を立てて葦簀を天井とした粗末なものだったが、それなりに店舗の形が整えられていたのは、管理者として地場のヤクザの関与が有ったおかげだと言えよう。地場のヤクザたちは先ず箱を作り、それを貸し出すことで出店料と家賃を取るやり方をした。つまりどこも尾津菊次郎が創設した新宿の尾津マーケットを規範としたのだ。

しかし新橋の駅前は違った。新橋は竹久組のシマだったが、同組は戦災で半壊状態になっていたため、彼らの関与のないまま、自然発生的に生まれたものだ。そのため屋台などなく、地面に売り物を並べただけの露商の集まりになっていた。

露商は先ず東口駅前に有った二軒の外食券食堂の周りに出来た。食堂の前に並ぶ行列を目当てに立ちんぼで外食券を売る連中が現れ、同じく様々な生活用品を売る者が現れた。となると今度は外食券ではなく、それらを目当ての人々も集まるようになり、売る者も増えて、市場の中心は東口駅前の広場へと自然に移っていたのである。

金曜土曜と降り続いた雨のせいで、駅前の広場は泥濘のままの所もあったが、それを器用に避けながら、無数の呉座や風呂敷が拡げられて露店になっていた。その露店の前は、どこも人だかりが出来ている。小美世と千鶴子は、銀座口の角でゲンが戻ってくるのを待っていた。
「遅いねえ。ゲンの奴。見つからないのかねえ。」小美世が言った。
「小美世さん」その小美世に声をかける者が有った。壮年の着物姿の男とゲートルを巻いた30代の国民服の男だった。
「あら。理事さん。ご無沙汰。」小美世が言った。
「小美世さん。助かったのか。木挽町は大半が燃えたんだろう?」理事と呼ばれた壮年の着物姿の男が言った。
「そうなの。何の縁だかウチは焼夷弾が避けてくれてね、燃えなかったのよ。」
「そうか・・それは良かった。となりのお嬢さんは?娘さんかい?」
「だと良いんだけどねぇ。ウチのは、飯潰しの一人息子よ。この子はウチのそばの大学の先生のお嬢さん。焼け出されちゃって、いまウチでお預かりしてるのよ。」
「萬田と申します。」千鶴子が深くお辞儀をすると、理事と国民服の男が一緒に小さく頭を下げた。
「どうも。深沢といいます。新橋の料亭組合の理事をさせてもらってます。この方は松田さん。」理事が言った。
「どうも松田です。」国民服の男が柔和な笑顔で頭を下げた。
「松田さんは、このマーケットを仕切っておられる」理事が言った。
「いやとんでもない」松田は笑いながら手を横に振った。「みんなが気持ちよく商売できるように、みんなを代表して色々工夫してるだけです。仕切ってるわけじゃない。」
「松田さんのおかげで、料亭組合も何とか再開の目途が立ちそうでね、助かってるよ。」
「そういっていただけると働き甲斐が有ります。」松田が明るく笑いながら言った。
「よござんすわ。女のコたちのお座敷が始まらないと、私ンとこなんぞも閑古鳥のままですから。」小美世が言った。
 理事が千鶴子を見つめた。
「しかし、萬田さんですか? お綺麗な方だ。小美世さんのとこのお弟子さんですか?」
「とんでもない。チヅちゃんは素人さんですよ。大学の先生のお嬢さんですもの」
「そうですか。そりぁ残念だ。お座敷に出たら大したもんなのにな。」理事が笑った。
「お仕事は?」松田が言った。
「はい。事務を・・」千鶴子が応えた。思わず協会の名前を出しそびれたのだ。
そのとき、通りの向こうにゲンの姿が見えた。丸坊主の若い男と一緒だった。「ゲンちゃん」「吉三」千鶴子と松田が同時に声をかけた。

松田に声をかけられた若い男はその場に直立し、直角に頭を下げた。一緒にいたゲンは、通りを渡り切ってから何事かと若い男のほうへ振り向いた。 「吉三、知り合いか?」松田が言った。
「はい!同じ大井町の工場で働いてました!」
「ゲン、この方がお前が言ってた仕事を紹介してくださった方かい?」小美世が言うと。
「うん。吉さんってんだ。いま歩きながら松田さんって人のとこで働くことにしたという話を聞いてたとこなんだ。」ゲンが言った。
「俺が松田だ。よろしくな。」松田が笑いながら手を差し出した。ゲンは戸惑いながら、ぎこちなく握手をした。
「吉三。仕事って何だ?うちのことか?」松田が言った。
「いえ。銀座に今度出来るビヤホールのボーイの職を紹介しました!」
「お前が行くと言ってた米兵相手のビヤホールか?」
「はい!」吉三は起立したまま言った。
「ふうん。ゲンさん。いいところに目を付けたね。」松田が言った。
「ありがとうございます。そうですか?」とゲン。
「うん。アソコは短命だろうが大きな金が動くところだ。働く者にも色々おこぼれがあるはずだ。いい運が舞い込むから、巧く使いなさいよ。」松田が言った。
ゲンは松田が言う意味が分からないまま頭をコクリと下げた。千鶴子はそんなゲンを見つめていた。短命?その松田の言葉を反芻した。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました