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葛西城東まぼろし散歩#07/南砂町01

googleMapを見ながらどうやって行くかな?と考えてた。
江東区は広い。面積は43.01平方キロメートルとのこと。都内で一番大きい区は大田区60.66平方キロメートル。次は世田谷区58.05平方キロメートル。次は足立区53.25平方キロメートル。4位は江戸川区49.96平方キロメートル。5位は練馬区 48.08平方キロメートル。6位が江東区だ。
もともとは江戸入り江の東・江戸湊の利根川荒川が流れ込んだ広大な汽水地帯な遠浅湿地・葦原地帯だ。いまでも江東区内には、島の名前が多い。亀島、大島、宝六島、永代島等々・・幾つも点在する小さな中州のような島々を開墾し繋いで出来上がったのが江東区だ。したがって江東区か路が農地から出来上がった道ではなく、運河に沿って碁盤状に成り立っている。なので土地も・・四角く平べったい。
亀戸と深川の間、大島から北東部へ向かおうとすると、交通手段は限られている。南砂町は東西線しか鉄路はない。・・あとはバス路か、徒歩か。
嫁さんに言えば「歩きよ!」言われるので、その前に経路を考えていた。
今回の行き先は富賀岡神宮である。
縁起にこうある。
「富賀岡神宮 江東区南砂7-14-18
当宮は深川富岡八幡宮の元宮として、また、砂村総鎮守として広く知られており、その創建は古く、藤原鎌足の孫、藤原豊成卿が下総守に任じられ下向のみぎり、天平勝宝元年(749)に創立された区内屈指の古社であります。
 当宮と深川富岡八幡宮との関係は、この地が宝六島と呼ばれていた寛永初期、卿より永代島に移り暫く当宮を拠点に活動していた長盛法師が、当宮に奉祭されていた「八幡像」を、深川八幡宮に移し勧請したことによります。この「八幡像」は、源三位頼政、千葉氏、足利尊氏、鎌倉公方基氏、管領上杉氏から太田道灌へと伝えられ、特に道灌より厚い崇敬を受けていたものであります。
 享保年間には、境内に桜、松あわせて3万本が植えられ、8代しょうぐん吉宗公お手植えの矢竹なども存在しておりました。この風光明媚な様子は江戸名所図会や安藤広重の名所江戸百景にも描かれ、当地が江戸の景勝地であった事を窺い知る事ができます。現在も境内二位は都内でも数少ない石造の富士塚や芭蕉句碑、鳳卵石などが残されています。 
 また、この地の由来は、万治2年(1659)に開拓者である福井鯖江の砂村新左衛門により新田開発が完成し、砂村新田と名付けられ砂村の地名が生まれました。
 「御祭神」 
応神天皇(誉田別皇) 比売大神 宇迦之御魂大神 外五柱 
宮司 荒井秀樹 
御創建1260年記念 富賀岡八幡宮奉賛会」

「東西線で東陽町まで行って、そっからバスかあ。バスは一時間に一本だな。うまく調整しないと、東陽町で時間つぶすことになるな」
「歩くとどのくらいなの?」と嫁さんが言った。
「20分くらい・・待ち時間で東陽町でサテン入るくらいなら、到着してるな・・歩くか」
「どこから?」
「南砂町」
「あの辺も砂町なの?」
「ああ、砂町/砂村は江戸周辺の中でも大成功した開墾地だったからな。大きいんだよ。その砂町/砂村を産み出した『砂村新左衛門顕彰碑』を今回は見に行くつもりなんだ」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました