日本橋まぼろし散歩#27/小商い 時のあいまを 流れけり
甘酒横丁を浜町に向かって歩いた。商店街も甘酒横丁も時代の趨勢はある。
「相変わらず小さい店が重なるようにある。いいね、ちゃんとまっとうな地元の商店街の風情だ。こんな風情の商店街が令和の御代になって激減した。借家で商いする人が個人じゃなくなってたこと、それと家主が商いするより大家するほうがいいと商道を諦めちまったせいだな。哀しい話だ。諦めからは何も生まれない。銀座や渋谷・新宿・池袋だって一昔前は二階に住んで一階で商いしたもんだ。それを諦めちまわなきゃならなくなったのは、世の中が進んでる方向に何ンか大きな間違いがある・・そう思わないか?」
「そうね、銀座もドンドンご夫婦家族でやってるお店は消えちゃったわねぇ。しばらくぶりに日本へ戻って、あ・アレもない、コレもない、の連続ですものね」
「ん。子供時代の豊穣が消えてしまうのは寂しいもんだ。この街はそうなってほしくないな・・そう思うよ。
小商いってぇのは、する者にも、購う者にも、生活の匂いがある。それがワザワザそこで買う理由でもあるんだ。
かどかどの ささえとなれや 小商い・・ってやっだ。
それがいつの間にか、どっかの田舎でひとやま当てたチェーン店ばかりがノしてきて、O家Xェ衛門とかナンとか、まるで老舗のようなフリした"死ニセ"ばっかりが臆面なくデカい看板出して、チャラいねぇちゃん・にぃちゃんが、どっかのセントラルキッチンで作ったでっち上げもンに、へりくつ塗り付けて売るようになった。ンで、なんか聞くと『少々お待ちください』を五度でも十度でもくりかえすようになった。そんな商いがまかり通るようになっちまって・・こいつぁ文明のリキは残っても、文化のキリがさっぱり消えちまう・・末法な話だぜ」
「でも甘酒横丁も、しばらくぶりに来ると知らない店ばかり・・ずいぶん店が変わってみたい」嫁さんが通りを見まわしながら言った。
「ん。借家商売の店は、良くなっても悪くなっても変わる。変わることが町の元気の印なんだ。
小商い 時のあいまを 流れけり・・ってね」
「でも、あなたの言う『死ニセ』はないみたいね」
「あはは、うれしいね。鯖浅利ながら、鱈海鼠腸に帰るというはに鯨しい。せめてものはら伊勢海老に、このひと太刀魚をかまして槍烏賊ってね」
「なにそれ?」
「義経千本桜・渡海屋の場だ」
「またわけわからないこという」
1972年に埋め立てられるまで、日本橋浜町と日本橋人形町との間には浜町川という堀割があった。埋められたのは僕が大学生になったころだ。オフクロと歩いた浜町には川が有った。隅田川遊覧の起点だったと思う。町に色気が有ったのは子供心でも分かった。
「僕のガキの頃には芳町という町だった。最盛期には100軒近い料亭があったそうだ。木挽町も晴海通りより向こうは黒塀の町だったけどな。芳町はもう少し小ぶりな料亭が集まるところだった」
「芳町って、もうないの?」
「ん。町名改正で藻屑となって消えた。芳町の芸者さんは『粋でおきゃんで芸がたつ』と言われてね、日本橋の芸者衆と双璧を為して、有名人や豪商の御贔屓が多かったそうだ。」
「もうないの?」
「残滓はある。でも店として矍鑠なまま門を構えているのは『濱田屋』さんだけだ」
「江戸時代からお店なの?」
「いや、大正元年が創業だったと思う。玄冶店の跡地に創業してる」
「玄冶店って、このあいだ言ってた"死んだはずだよお富さん"の玄冶店?ほんとに有った 店なの?」
「ん。あった。しがねぇ恋の情けが仇 命の綱の切れたのを どう取り留めてか 木更津から めぐる月日も三年越し江戸の親にやぁ勘当うけ 拠所(よんどころ)なく鎌倉の 谷七郷は喰い詰めても 面に受けたる看板の疵が勿怪の幸いに・・てぇ、切られ与三の名セリフのとこだ」
「ふうん。大正時代に始まったお店なのねぇ」・・と、嫁さん。玄冶店の名セリフにはのってくれない・・
押借り強請りも習おうより 慣れた時代の源氏店 その白化けか黒塀に 格子造りの囲いもの 死んだと思ったお富たぁ お釈迦さまでも気がつくめぇ・・つづけるつもりだったのに、鼻づら折られた。
「たしかに芝居町が日本橋川沿い栄えていたし、日本橋で商いする人たちの住まいが、職人たちの住まいもこの辺りにかたまっていたけどね、町としては隅田川沿いに武家屋敷の下屋敷や別宅が並ぶところだったんだよ。とくに浜町川より向こうは武家屋敷ばかりでむしろ閑静なところだった。実は明治座の前身もね、できたのは明治の御代になったからだ。この街が華やかな街として確立されていくのは、明治の御代に入ってからなんだよ」
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました