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佐伯米子#10

杖突きながらモンマルトル歩きは辛い。急な坂ばかりだからね。
でも実は、バスが坂の細い道を巡ってる。これを利用するとラクなんです。それとムーランルージュの前から出ている汽車のカッコした遊覧バス。これは途中下車できるので、実は中々便利なのです。
今回は、これを利用してサクレクール寺院のところまで行った。
モンマルトルはいいね。此処は、こんなにパリが大きくなる前は、一番近い郊外だった。サンドニの教会があって、修道女たちのための修道院があって、葡萄畑があった。わりと田舎だった。だから特有の方言があった。これが今でも土地の人に残っている。
モンマルトルは、19世紀のベルエポックが/20世紀のエコール・ド・パリが。町全体に滲み込んで、今でもそれがソコハカと香る地なのだ。
僕のパリは此処だ。だからパリを訪れれば、必ず寄る町なンです。

何年か前に、サクレクール寺院近くの横町にスターバックスができた。
うれしかったなぁ~。だから嫁さんには「なんでパリに来てまでスタバなのよ!信じられない!」と言われながらも、隙を見つけちゃ此処へ潜り込む。はは♪僕は"パリのアメリカ人"なンです。
そのスタバにタムロしながら、佐伯祐三の話をした。
佐伯は、ユトリロの後塵を恐れて、写生の場所にモンマルトルを殆ど選ばなかった。彼のパリはモンパルナスだ。それは彼を取り巻く日本人たちの多くが東岸に居を構えていたこともあったと思う。その佐伯祐三が、ユトリロと同じ場所でサクレクールを描いたことがある。最初のパリ訪問のときだ。その絵をスタバで嫁さんに見せた。i-padsは便利だね。ムカシじゃ考えられない。こンなことしようと思ったら、画集を持って歩かなきゃならない。
ユトリロと佐伯祐三の絵を見比べながら、嫁さんが言った。
「なぜこんなに佐伯祐三のサクレクールはおどろおどろしているの?ぜんぜん爽やかさがない。」なるほど、そのとおりだ。「この絵を自宅に飾りたいとは思わないわ。美術館で見るのがせいぜいね」と一刀両断した。
たしかに佐伯祐三の初期の作品に、見るものへの心配りはない。オノレの思いの吐露があるだけだ。もしゴッホほどの巨大なタマシイがあるなら、それはそれで良いのかも知れない。しかし佐伯程度の"小粒"では(笑)うちの嫁さんのOKは取れない。そう思った。普通人は普通だからこそ厳正な審美眼をもっているもンさ。
「人形の絵とか、民族衣装の絵とか、良いのに。」
「ん。実はあの辺は佐伯祐三が1人で書いた絵じゃない。」
「どういうこと?」
「奥さんだった佐伯米子が加筆しているんだ。誰も公的には言い出さないけどね、競作なんだ。」
「ふうん。そうなんだ。奥さんとの競作のほうが良いわね。」
「ん。たしかに。しかし・・画廊たちも美術館も奥さんの加筆が有ったとは、はっきりと言ってない。コイツは、みんなに良く知られているナイショ話さ。」
「へんなの。」
「ん。たしかにへんだ。しかしソレがまかり通っている。実はそれがまかり通ってしまう日本の画壇そのものがへんなのかもしれない。」
「佐伯祐三はパリで亡くなったんでしょう?奥さんは?」
「奥さんは帰国した。下落合で暮らした。生涯を下落合でひっそりと全うした人だ。」
「再婚は?」
「しなかった。祐三が残した絵を少しずつ売って、それで倹しく生きた人だ。自分も絵を描いたので、それでも生計は立ったんだろうな。彼女が生きたアトリエが佐伯祐三記念館として今でも残っているよ。帰国したら見に行こう。」
「下落合って何処?」大半を京橋区だけで生きてる(^o^;;嫁さんが言った。嫁さんにとって生活圏は京橋区で、ソレより先は「小旅行」なのだ。
「池袋の向こうだ。」僕が言うと。
「遠いわね・・」うちのお袋みたいなことを言った。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました